知れば知るほど奥深い! キノカブ文芸部による『心中天の網島』のちょっとマニアックな豆知識[第2回]

第二回
心中(しんじゅう)、その歴史と心中(こころのうち)

木ノ下歌舞伎文芸部・稲垣 貴俊


「心中(しんじゅう)」。愛し合う男女がともに命を絶つこと。
この言葉は、もともと「相手への誠意を示すこと」を意味するものでした。かつて、遊女と客、あるいは男性同士の恋愛において、彼らは断髪をしたり、爪を抜いたり、入れ墨をすることで、その真心を訴えたのです。
では、「心中」とは、いつ男女の情死を指す言葉に変わったのでしょう。
江戸時代、男女が合意のうえ自死に及んだ最初の例は、天和3(1683)年に大坂の生玉で起きた、遊女市之丞とその客長右衛門の事件だといわれています。これを皮切りに、巷では心中事件が多発するようになりました。その数は2年間で36件とも、1年間で300件(!)ともいわれています。正確な数字はさておいても、その流行ぶりを疑う余地はありません。
心中にいたる理由の多くは、彼らの関係が公に認められるものではなかったことでしょう。たとえば、ある妻が夫以外の男性と通じてしまった。遊女と客が、金銭的事情を超えて結ばれようとした。独身同士であっても実家に認められなかった。倫理、経済、家……いわば〈社会〉の抑圧を受け、そこから弾き出された男女を救ったのは、「この世で結ばれなくとも、あの世に生まれ変われば結ばれる」という考え方だったのです。
その流行に一役買ったのが、人形浄瑠璃や歌舞伎といった演劇でした。元禄16(1703)年、近松門左衛門は実在の事件を題材に『曾根崎心中』を上演し、観客を熱狂させています。これは世間に心中事件を増やすほどのブームとなり、その後も近松ら作家たちは〈心中もの〉を続々と発表しました。また、上方文化が広まるとともに、「心中」は江戸においても流行をみせています。
しかし享保7~8(1722~23)年、幕府はついに心中を取り締まる法令を出しました。遺体は取り捨てて弔いを禁じ、一方が生き残れば下手人として斬首刑、双方が生き残れば3日間晒したのちに非人の手下とする。また、事件の類を絵草紙や歌舞伎狂言に取り上げることを禁じる……。特筆すべきは、法令に「心中」ではなく「相対死」という言葉が使われたことでしょう。一説には、「心中」の2文字をあわせると「忠」になることを良しとしなかったためだといわれています。
この法令のあと事件は激減し、〈心中もの〉は改作され、その結末はハッピーエンドに変えられました。のちに法令は緩和されましたが、社会の抑圧に苦しんだ者たちを救ったであろう「心中」は、ほかならぬ社会によって一時的に封印されたのです。
現代において、死によって愛が成就する、生まれ変われば結ばれる、という考え方は現実に通用するものではありません。しかし〈抑圧〉のなかで日々を過ごし、それでも救いを求める人間の姿は、当時とさほど変わりないことでしょう。愛する者と死へ向かう男女は、いったいなにを見ていたのか。ともすれば私たちは、その眼差しのなかに、どこか知っている風景を見つけ出すことができるかもしれません。

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