【隅田川・娘道成寺】伝説、そして“生”のドラマ―隅田川・娘道成寺―

木ノ下歌舞伎文芸部・稲垣貴俊

「隅田川」「娘道成寺(京鹿子[きょうがのこ]娘道成寺)」は、古典芸能の世界にそびえる大曲、いわば金字塔ともいうべき舞踊演目です。はじめにざっくりと説明しますと、「隅田川」は、愛する息子を人買いにさらわれた女性が、物狂(ものぐるい)となって息子を捜し、隅田川にて息子の死を知るまでの物語。「娘道成寺」は、愛する男に裏切られた女性が、美しい踊り子に姿を変えて、因縁の道成寺を再訪するという設定です。
歌舞伎「隅田川」は、1919(大正8)年9月、初代市川猿翁によって、東京・歌舞伎座で初演されました[註]。また歌舞伎「京鹿子娘道成寺」は、1753(宝暦3)年3月、初代中村富十郎の手で、江戸・中村座にて初演されています。つまり「隅田川」よりも、「京鹿子娘道成寺」のほうがずいぶん歴史が長い演目なのです。あくまで“歌舞伎演目としては”ですが……。
と、いいますのも、じつは「隅田川」「娘道成寺」には“二つの共通点”があるのです。
一つめは、どちらも能に取材した演目であること。「隅田川」は、能に同名の演目があり、歌舞伎版はそちらの筋に非常に忠実な構成となっています。また「娘道成寺」も、能「道成寺」を下敷きにした演目で、同じくその構造・構成を踏襲しているのです。
そして二つめの共通点は、「隅田川」も「娘道成寺」も、能の演目からさらに遡ったところに“伝説”が存在するところ。つまり、どちらも古くからの伝説に取材して能が作られ、さらに能をもとに歌舞伎版が作られているわけです。どちらも歌舞伎だけでは語りきれない、気が遠くなるほど長い歴史をもつ演目なんですね……。
今回は、二つの演目を生んだ“伝説”を紐解いてみることにしましょう。

【梅若丸伝説→「隅田川」】
能・歌舞伎の「隅田川」のもとになったのは、梅若丸伝説(梅若伝説)とよばれるエピソードです。
平安時代中期、京都の吉田少将惟房と、その妻である花御前には、梅若丸という息子がいた。5歳で父を亡くした梅若丸は、7歳で比叡山に上るものの、そこで法師たちに襲われ、なんとか大津へ逃れる。しかし梅若丸は、そこで出会った信夫藤太という人買いに騙され、奥州へと連れられてしまうのだった。旅の途中、梅若丸は隅田川のほとりで病に倒れてしまう。看病を受けるものの、梅若丸は「訪ね来て 問はば応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」という句を残し、12歳で帰らぬ人となるのだった。
翌年、息子をさらわれて狂女となった花御前が、我が子を捜して隅田川を訪れる。すると人々が、川の対岸にて念仏を唱えていた。そこで病に倒れた梅若丸について聞かされた花御前は、人々とともに菩提を弔う。すると塚の中から、梅若丸の霊が幻のごとく現れ、親子は一時の再会を果たすのだった。しかし梅若丸の霊は、日が昇るとともに、たちまち消えてしまった。
能・歌舞伎の「隅田川」は、この梅若丸伝説の後半、母親が狂女となって隅田川を尋ねてくる部分以降を抽出したものです。人形浄瑠璃や歌舞伎では、ほかにも梅若丸伝説や能「隅田川」をもとに数多くの演目が作られており、「隅田川物」というジャンルになるまでに至っています。しかし「隅田川物」の多くは、梅若丸伝説とは大きく異なる物語です。

月岡耕漁「能楽図絵」より『隅田川』。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Matsuke_Heikichi_-_Nogaku_zue_-_Walters_95256.jpg

月岡耕漁「能楽図絵」より『隅田川』。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Matsuke_Heikichi_-_Nogaku_zue_-_Walters_95256.jpg

【安珍・清姫伝説→「娘道成寺」】
一方「娘道成寺」のもとになった能「道成寺」が取材したのは、紀州道成寺に伝わる安珍・清姫伝説です。
928(延長6)年の夏のこと、奥州より熊野詣をしている僧・安珍がいた。道中で安珍は、紀伊国(現在の和歌山県)真砂に暮らす庄司家を一夜の宿とする。庄司の娘・清姫は、美形であった安珍に一目惚れし、夜這いをかけて迫った。熊野詣の最中であった安珍は、「帰りに必ず立ち寄る」と話して、清姫の求愛を断る。しかし清姫の思いを裏切った安珍が、庄司家を再び訪ねることはなかった。
騙されたことを悟った清姫は怒り、安珍を裸足で追い、ついに道成寺へと至る道にて安珍に追いつく。焦った安珍は、自分は別人であると嘘をついて一目散に逃げていく。安珍を追う清姫の姿は、怒りのあまり蛇へと変わりはじめていた。安珍は日高川を渡り、道成寺に逃げ込む。しかし完全なる蛇となった清姫は、川を越えて安珍に迫っていた。道成寺の僧に助けられた安珍は釣鐘の中に隠れるが、ついにやってきた清姫は、鐘に巻き付くと、口から吐く炎で安珍を焼き殺してしまう。その後、清姫は蛇の姿のまま入水するのだった。
この安珍・清姫伝説は、能「道成寺」や歌舞伎「京鹿子娘道成寺」のみならず、能や歌舞伎の題材として数多くの演目を生みました。「隅田川物」と同様、すでに「道成寺物」というジャンルとなっています。もっとも「道成寺」「娘道成寺」は、能・歌舞伎の「隅田川」が梅若丸伝説を演目に直接取り入れたのとは異なり、安珍・清姫伝説の“後日談”として創作されたものです。
「道成寺」「娘道成寺」では、かつて大蛇に鐘を焼かれたことから道成寺は女人禁制になっており、ようやく寺に新しい鐘が奉納される、というところから物語が始まります。また主役の花子は、入水した清姫の化身であり、すなわち伝説に登場する人物が再び戻って来たという設定なのです。

土佐光重『道成寺縁起絵巻』より。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dojo-ji_Engi_Emaki.jpg

土佐光重『道成寺縁起絵巻』より。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dojo-ji_Engi_Emaki.jpg

かたや母と子の愛、かたや片思いからの逆恨み。親子の愛情と恋愛とでは、同じ愛でも種類が違いますし、またその結果も大きく異なります。たとえば「隅田川」の花御前が息子を奪われた被害者なのに対して、「娘道成寺」の花子(清姫)は愛した相手を殺害した加害者だ、ということもできるでしょう。けれども「隅田川」「娘道成寺」という二演目から浮かび上がってくるのは、そうした単純な対立ではないはずです。
「隅田川」と「娘道成寺」、またそれぞれの演目のもとになった伝説で描かれているのは、ともに喪われてしまった人物に対する愛情であり、それは時として“情念”と名指されてきたものです。「隅田川」が〈狂女物〉、「娘道成寺」が〈鬼女物〉の代表的演目だといわれるのは、そうした人物の情念が、狂女、鬼女という強い言葉のイメージに託されたからではないでしょうか。しかし、喪われてしまった人やものを求めてしまうのは、その人物がまだその場にとどまり続けているからであり、まだ生きているからにほかなりません。それは、狂ってしまった、鬼になってしまった、という言葉以上に切実な問題です。息子を捜す母親、愛する人を求める女性の姿には、“情念”という言葉では示しきれないほどの“生”そのものが渦巻いているに違いありません。「隅田川」と「娘道成寺」を並べてみれば、そこには親子関係や恋愛、加害や被害、また鬼女や狂女といった枠組みをも超えた、多面的な人間像が見えてくることでしょう。
非常に個人的な“生”を描いた伝説から、能の演目を経て、美しく華々しい印象の歌舞伎舞踊へと変化してきた「隅田川」「娘道成寺」。長きに渡るその系譜を継ぎ、今回これらの演目をソロダンスとして新たに演じ直すのは、白神ももこさん、きたまりさんのお二人です。その身体に、今度はいかなる“生”のドラマが託されるのでしょうか。

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[註]歌舞伎「隅田川」は、ソビエトに留学していた初代猿翁が、日本への帰国後はじめて創作した演目とあって、猿翁による当時の振付には、ロシアン・バレエの影響が色濃かったといわれています。その意味では、木ノ下歌舞伎でも以前上演した「黒塚」に、非常に関係の近い演目だといえそうです。

※本文中に示した「梅若丸伝説」「安珍・清姫伝説」の内容は、すみだ郷土文化資料館・編『隅田川の伝説と歴史』(2000年、東京堂出版)、道成寺護持会発行『道成寺絵とき本』など、複数の資料を参考に、筆者が独自に執筆したものです。なお伝説の内容には、時代や地域によって諸説あるため、本文に紹介した内容と異なるものも存在することをご了承ください。