主宰木ノ下、思いを綴るーきたまりさん編ー

 きたさんの身体は、言葉を寄せ付けない。だから好きだ。きたさんは、ダンスでしか成し得ない作品を作っている。つまり、演劇でも、文学でも、歌でもダメ。〈言葉〉で語れることなど高が知れていて、〈身体〉のほうがよっぽどダイナミックに、豊かに語ることができるのだという信念のもと創作されている。「私の作品にダンス以外の表現形態はありえない!」という域まで純度が高められた作品は、鋼のように強く、真綿のようにやさしい。そうした圧倒的なパフォーマンスに対して、批評じみた感想や、わかったような能書きは、口に出すだけ野暮である。下手な言葉など、きたさんの、雄弁で豊かな身体言語に比べれば、屁のように軽く、空虚に響くだけだ。だから、きたさんの踊りは、黙って見るにかぎる。あえて言葉を探そうとせず、夕焼け空にゆったり対峙するような気分で、ただただ浸るように見る。すると、人間の身体が持つ切なさ、いびつさ、醜悪さ、美しさが浮かび上がってくる。そして最後には、決まって、人が人で在ることのどうしようもない哀しみと、神聖さに胸打たれる。理屈ではなく、心にダイレクトに響いてくる。
 いつだったか、きたさんが「お客さんが作品のコンセプトの答え合わせをして、満足してしまうようなダンスじゃいけない。もっと豊かに自由に感じ取ってもらえるようでないと」と漏らしたことがあった。私にはその言葉が、ダンスへの〈愛の告白〉のように聞こえた。

木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一