【勧進帳】演出家|杉原邦生×主宰|木ノ下裕一 [後編]

創立10周年を記念して2年間にわたり開催中の「木ノ下“大”歌舞伎」。その第2弾は、2010年に初演された『勧進帳』だ。
“関所=境界線”をテーマに、大きな停止線が引かれた道路の上で、外国人キャストが演じる弁慶や女性キャストによる源義経たちが、境界を巡って蠢き出す。初演時に評判を呼んだ本作が、再演ではいかに進化するのか?
“大”歌舞伎をもって木ノ下歌舞伎を“卒業”する杉原邦生と、主宰の木ノ下裕一が、新生『勧進帳』について、そして木ノ下歌舞伎10年の歩みについて、たっぷりと語る。

聞き手:熊井玲(ステージナタリー)
2016年6月27日 急な坂スタジオにて収録

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《後編》「四谷怪談」で結ばれた二人

−−杉原さんは「木ノ下“大”歌舞伎」で、木ノ下歌舞伎からの卒業を明言されています。発表されたときには反響が大きかったですね。

杉原 よく「やめないでください」って言われるんですけど、卒業はしますが演出家としては関わると思います、ってSNSとかでも書いてるんですけどね(笑)。卒業をはっきり意識したのは、2013年に『三番叟』でチリ公演に行った時でした。実はその時、先生は怪我で入院中で、団体初の海外公演になんと主宰が行けなかったんだけど(笑)、そのチリ公演がすごく盛り上がって。それを客席の後ろから観てる時に、夢見てた海外公演なのに、すごく生意気だけど、想像できる範囲だったというか、「こんなもんか」と思ってしまって。じゃあもっと想像できないようなことが起こるにはどうしたらいいんだろうって考えた時に、それには僕が外に出て力をつけて、もっと「こういうのどうだ、ああいうのどうだ」って先生を引っ張っていけるような演出家としてのエネルギーとパワーをつけないと、って思ったんです。

木ノ下 いつかどこかで卒業っていうことは、結構前から考えていたんですよね。邦生さんは興味こそあれ、別に僕のように、古典の現代化だけをメインでやりたい人ではないし、メンバーだといろいろ雑務もあって、演出家としてこれから打って出ようという時に、そういうものから1回自由になるのは、邦生さんにとって大切なことだと思っていました。それと、古典を通過した演出家を木ノ下歌舞伎から輩出していくことが目標の一つにあったので、その第1号が邦生さんになるなと。

杉原 お互いがお互いの足かせになったり、気を使い合うようになってしまうと同じ団体のメンバーとして不健全だし、そうなる前に区切りをつければ、アーティストとして友人として、そのあとも付き合っていけるなと思って。だからとても前向きな決断なんです。
それと、僕には自分で決めた、木ノ下歌舞伎にいる間のミッションがあって。偉そうに言うと、団体の評価とか影響力をあるラインまで持ち上げようと思ってたんです。それと一緒に僕も演出家として持ち上がっていく。で、そこにはもう到達したなと思ったんだよね。

木ノ下 どこで思ったの?

杉原 2012年の『義経千本桜』でそう思った。注目され始めていたし、先生に演出家の仲間もできてきたし。ちょうどそのあとにF/T13への参加や海外公演も決まって、もう僕のミッションは終了したなという感じがしました。今や僕以外の演出家が携わっても“木ノ下歌舞伎クオリティ”みたいなものが出来上がってきているし、そこまでやれるエネルギーがあるなら、もう僕なしでも(団体として)走れるでしょ、と。

木ノ下 僕は邦生さんが抜けるってなったときに、木ノ下歌舞伎の中で問題になることは3つあると考えて。1つ目は邦生演出が観られなくなって、木ノ下歌舞伎の大きなレパートリーが消えること。でもこれは卒業後も演出家として付き合えば大丈夫、と思い直して。2つ目は、邦生さんが担っていた、木ノ下歌舞伎のブレーン的な存在がいなくなること。でもまあそれは僕ががんばるしかないなと思って。いい出会いがあれば、ブレーンを新メンバーとして迎えてもいいわけだし。3つ目に、これが一番大事なんだけど、ほかの演出家と作品を作るときに、邦生さんは美術担当として、僕はドラマトゥルクとして、演出家を挟み撃ちみたいにして巻き込みながら作品を作ってきたので、それができなくなるなと。で、邦生さんの卒業が決まってから一緒に組んだ、糸井(幸之介)さんと多田(淳之介)さんとは、僕自身の稽古をしようと思って(笑)、邦生さんとやってきた作り方を、ある部分踏襲しながら試行錯誤したんです。どういう段階を経れば、演出家とより強い信頼関係を結びながら、作品の強度を上げていけるのか……といった、いわば”キノカブメソッド”を固めていくことに挑戦しました。結果、いろいろな発見があって面白かった。そうやって僕も、邦生さんの卒業に向けて準備を重ねてきました。

忘れがたき、木ノ下×杉原作品と言えば?

——そのようにずっと歩みを共にしてきたお二人が一緒に作られた作品の中で、最も印象深い作品はなんでしょう?

杉原 難しい〜!(しばし沈黙)

木ノ下 僕決めた。あのね、2013年の『東海道四谷怪談—通し上演—』の“初日”! あの作品は小屋入りしても時間がほとんどなくて、ゲネもほぼ場当たりみたいなことしかできずずっとバタバタしてて。で、初日はハプニングもあったりして自分たちが思っていたような作品のレベルには至らなかったんですよね。2日目以降は満足できるレベルになったのだけど。初日の終演後は邦生さんとの会話もなかったんですよね、お互い落ち込んでいて口もきかない(笑)。で、翌朝になって邦生さんが劇場のロビーにいたの。本番までの限られた時間の中で、これからどこを稽古するか……をノートに書き出しているんですよね。僕にも何か相談があるかもしれない、と思って横に座ったら、「仕事したいから向こうに行っててくれる?」って邦生さんが。

杉原 え〜(笑)、そんなことあった?

木ノ下 うん。僕の出る幕はなかった(笑)。その時に思ったのは、やっぱり演出家って孤独だなってこと。どんなに僕がドラマトゥルクをがんばろうが、「最終的には主宰が作品の全責任を負う!」と豪語しようが、僕には絶対に背負えないものがあってそれはすごく重いものなんだと思ったんです。カルチャーショックでしたね。そのことだけは、今後、演出家と付き合う際に、絶対忘れちゃいけないと胸に刻みました。

杉原 わあ、全然覚えてない(笑)。僕が一番思い出深い作品はね、やっぱり2006年の旗揚げ公演『yotsuya-kaidan』だな。あれは僕にとって演出家としてのターニングポイントになった作品なんです。前の年の2005年の年末に縁あってラスベガスに行ったんですけど、そこでシルク・ドゥ・ソレイユのショーを観て、“ああ、こんなに前衛的なことを、2000人規模の劇場で、これだけお金をかけてやれるんだ、エンターテインメントと前衛って、実は重なるものなんじゃないか”と驚いて。で、それをやろう!と思った第1作目が『yotsuya-kaidan』でした。歌舞伎を現代劇として上演しようとすると、どうしても学術的なことが先立ってお勉強っぽくなっちゃうイメージがあったんだけど、そこから一度引き剥がして、普段演劇を観ないお客さんでも感動できるものにするにはどうしたらいいか、それだけを考えて作品を作り始めた。で、この作品を経て「木ノ下歌舞伎は売れる!」と思ったから、「僕も入れて!」とお願いしたんです。

木ノ下 (笑)でも、僕も邦生さんも、“印象深い作品”は自分自身のターニングポイントになった作品なんですね。

杉原 そうだね。で、二人とも「四谷怪談」なんだね、運命や(笑)。

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予想を裏切り続けるのが面白い

——「木ノ下“大”歌舞伎」の中では、『勧進帳』は2つ目の作品となります。総合プロデューサーでもある木ノ下さんは、現在のところ「木ノ下“大”歌舞伎」にどんな手応えを感じていらっしゃいますか?

木ノ下 とにかく楽しい! もちろん僕は全作品に付いているからしんどいんですよ。でも第1作目の多田さんが見事に“大”歌舞伎の露払いをしてくれて。集客的にも過去最多でしたし、見事な幕開けになりました。

それと、“大”歌舞伎にかぎらず昨年くらいからのキノカブの流れが面白いなと思ってるんです、作品ごとに揺さぶってる感じがして。例えば『黒塚』は、濃密なものをコンパクトに観せる作品だったけど、その次の『三人吉三』はめっちゃ長いドラマを見せる作品だった。その次は『心中天の網島』で、妙ージカルの糸井さん演出だから、まず作風からして全然違う。ただ3作品に共通していたのはドラマの面白さが立ち上がってくることだったから、お客さんの感想にも「やっぱり古典ドラマは面白いね」っていうのが多かったんです。が、その次が多田さんの『義経千本桜』で、もちろんドラマもあるんだけどどんどん同時代性が入ってきて、“これは、あなたたちの話だ!”っていう揺さぶりがどーんとある。と、これまで「現代口語と古典の言葉のオーバークロスがキノカブの魅力だね」っていう感想が多かったんですけど、今度の「勧進帳」は全編現代口語っていう……。

杉原 あははは!

木ノ下 最高ですよ(笑)、もうお客さんの予想を裏切り続けてる。でも、どれも歌舞伎を現代化する方法だし、いろいろあっていいわけなんです。むしろその方が健全。好き嫌いはあるだろうけど、お客さんもいろいろ観てね、っていう、それが実現できてることに、すごく満足していますね。

杉原 うん。このまま来年の「木ノ下“大”歌舞伎」ラストまで、走りきっちゃってください。

木ノ下 はい!

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