木ノ下歌舞伎文芸部・関亜弓
『東海道四谷怪談(以下、四谷怪談)』は、文政8(1825)年、江戸中村座にて初演されました。この公演は集客の面で大ヒットを記録しますが、成功の裏側には大芝居(官許の芝居小屋)でさえ経営が苦しかった当時、客集めの苦肉の策として「目新しい上演形態」を採用したことが深く関係していたようです。まずはどのような点が画期的だったのか、実際の上演形式を見ていきましょう。
初日(一日目)
『仮名手本忠臣蔵』「大序」から「六段目」
『東海道四谷怪談』「浅草境内」から「隠亡堀」
後日(二日目)
『東海道四谷怪談』「隠亡堀」
『仮名手本忠臣蔵』「七段目」「九段目」「十段目」
『東海道四谷怪談』「三角屋敷」から「蛇山庵室」
『仮名手本忠臣蔵』「十一段目」
上記のように『四谷怪談』初演は、赤穂浪士の討ち入り事件を題材にした『仮名手本忠臣蔵(以下、忠臣蔵)』と半分ずつ交互に上演され、初日・後日(翌日)と二日間で完結する形式だったのです[註1]。これは「観客を飽きさせることなく何日も引きつけておく」ことに長けていた、田舎芝居[註2]や旅芝居などで用いられていた方法を真似たアイディアのようで、結果としてこの興行は約2ヶ月に及ぶロングランを記録しています。
しかし『忠臣蔵』といえば、元々は『東海道四谷怪談』初演の77年前にあたる1748年に初演された演目です。本当に南北は、集客のためだけにそんな2つの演目をわざわざ同時上演しようと考えたのでしょうか?
忠臣蔵と四谷怪談の関係
『忠臣蔵』は赤穂義士の仇討を題材とした人形浄瑠璃の戯曲で、1748年に大坂竹本座で人形浄瑠璃にて初演、同年に歌舞伎で初演されました。「江戸時代を支配した儒教精神、そこから出てきた封建的忠誠というものが、当時民衆のあいだにまで行きわたっていたので、それが背景とも中心思想ともなって『忠臣蔵』は生まれたのである、と断じたいのである」と河竹繁俊氏が指摘するように[註3]、〈主君の仇を討つ〉という忠誠心は『忠臣蔵』初演当時の民衆にも共感できるものだったのでしょう。それゆえ本作は、観客からの絶大な支持を得られたのだと考えられます。
実は『四谷怪談』は、この『忠臣蔵』と〈討ち入り〉という事件を挟んで表裏の関係にある演目なのです。南北が『忠臣蔵』の世界を借りて書き下ろした“パロディ”だともいえるでしょう。
そもそも『四谷怪談』の舞台は『忠臣蔵』と同じ時代、塩冶浪人たちが密かに高野家の屋敷に討ち入る計画を進めている頃。二つの作品を繋げて上演しても破綻や違和感の生じない設定が採用されています。またそのストーリーも、『忠臣蔵』の各場面と絶妙に重なり合っており、たとえば「浅草裏田圃の場」で行われる左門・与茂七(庄三郎)殺しは『忠臣蔵』五段目で行われる二つの殺人を思わせますし、「小塩田隠れ家の場」で盗人扱いされた又之丞が切腹しようとする筋立ては『忠臣蔵』六段目で早野勘平が切腹する流れに似ています。ほかにも、『四谷怪談』で『忠臣蔵』を思わせる例は数多存在するのです。[註4]
しかし『四谷怪談』には、決定的に『忠臣蔵』と異なる点があります。それは主人公が民谷伊右衛門という以前の主人の仇討ちに積極的でない不義士であること、そして物語の全編にわたって、あくまで庶民の生活にスポットを当てたドラマが展開されることです。『忠臣蔵』の最重要テーマである〈仇討ち〉も、こちらでは設定の一つでしかなく、物語のゴールではありません。
では、ここで再び『忠臣蔵』と『四谷怪談』が同時上演された意図を考えてみましょう。南北は、当時すでに時代遅れになりつつあった思想〈忠義〉の世界を皮肉りながら、今の世の中、つまり文化文政期の生々しい民衆の生活を、あえて『忠臣蔵』の世界と重ね合わせ、対照的に描きたかったのではないでしょうか。『四谷怪談』が初演されたのは、〈主人の無念を晴らすために義士が結束し、討ち入りを果たす〉という赤穂浪士の討ち入り事件から120年以上が経った時代でした。当時見え隠れしていた退廃的な世相をリアルに描くためには、義士と不義士をわかりやすく対比してみせる手法が必要だったのかもしれません。
ところが初演以降、『四谷怪談』は上演時間の関係もあって、単独で上演されることが一般的になりました。したがって『忠臣蔵』との表裏関係の印象は否応なく薄れ、それどころか『四谷怪談』は、現在では夏の風物詩、怪談物の代名詞として取り沙汰されることも少なくありません。
しかし南北はもともと『四谷怪談』を執筆する際、大きなものに立ち向かう、成し遂げることが是とされていた武士の世界ではなく、何かにしがみつこうと必死にもがく市井の人々に焦点を当てようとしていたに違いありません。作家としての魂を込めて、南北がこれまた必死に筆を進める姿を想像しながら『四谷怪談』を観ると、いわゆる“怪談話”としての世界とは違った風景がきっと見えてくるはずです。
[註1]1981 新潮社「新潮日本古典集成(第四十五回)東海道四谷怪談」解説より
[註2]江戸時代、地方の都市や村で旅回りの役者が演じた芝居のこと。
[註3]1979. 国立劇場芸能調査室「上演資料集〈166〉仮名手本忠臣蔵」解説『仮名手本忠臣蔵』の成立
[註4]『仮名手本忠臣蔵』は物語の設定を「太平記」から借りているため、人名は「太平記」に登場する人物の名前に置き換えられています。史実の吉良上野介が高師直に、浅野内匠頭が塩冶判官に、大石内蔵助が大星由良之助に、といった具合です。ただし一方で、『東海道四谷怪談』に登場する浪士は史実の人物から名前を付けられています。佐藤与茂七は矢頭右衛門七、小塩田又之丞は潮田又之丞、そして赤垣伝蔵は赤埴源蔵がそのモデルとなっているのです。
[/aside]