【東海道四谷怪談ー通し上演ー】演出家|杉原邦生×主宰|木ノ下裕一 対談[前編]

2013年、木ノ下歌舞伎が初めて通しで取り組んだ『東海道四谷怪談』。愛と欲望、忠義と復讐……さまざまな人々の本音と建前が錯綜する一大群衆劇として、注目を集めた快作が、満を持して「木ノ下“大”歌舞伎」に登場する。この4年という月日、そこで重ねた創作、経験は、いかに再演に注ぎ込まれるか。古典と現代とを出会わせるその手腕はどのように育まれたのか。
監修・補綴を手がける木ノ下裕一と、この再演をもって木ノ下歌舞伎を卒業する演出・杉原邦生が、大いに語る!

聞き手:鈴木理映子
2017年4月25日森下スタジオにて収録


    木ノ下歌舞伎の『東海道四谷怪談』は、2013年秋に初演されました。6時間に及ぶ通し上演は、お二人にとっても大きな挑戦だったと思いますが、この初演を今、どのように振りかえっていますか。

木ノ下 やっぱり、6時間という長い作品を一人の演出家とつくったいう達成感は大きかったですね。フェスティバル/トーキョーで上演されたこともあって、たくさんの人に観てもらえて、初めて動員が1000人を超えた作品でもありました。そもそもカットして上演されることが多い演目ですから、僕自身も四谷怪談の全貌を観たかったし、それがちゃんと主義主張のある、演出家のカラーも問題意識も入った全幕上演になったという興奮も感じました。

杉原 そうそう。でも、改めて映像で観てみたら、演出的に弱いなと思うところがいくつかあって。特に1、2幕。話はわかるし、見せられるものにもなってる。自分でも「なるほど」と納得できる部分もあるけど、どこか演出の勢いだけで走っている感じがしました。ただ、「弱いな」と思った部分を補強しようとすると、「初演のままでいける」と思っていた部分も変えなきゃいけなくなっちゃうんです。全体の流れとバランスが変わってくるから。あとやっぱり、2幕の髪梳きの場(※1)なんかは、木ノ下歌舞伎では通算4回目の上演(※2)ですから。「こういうものだ」っていうイメージが自然とついちゃっていて、もちろん、それも一つの正解だし、強みでもあるけど……いかに全体を補強しつつ、そういう固定概念から逃れるかという課題を、稽古開始から1か月の今、ようやく解き始めたところです。

    具体的に、今回の再演で見直したいポイントはどんなところでしょう。

杉原 たくさんありますけど(笑)、たとえばお岩の妹のお袖と夫の与茂七が、娼婦と客として出くわす1幕の地獄宿の場。僕の解釈では、二人は一応恋愛結婚なんだけど、与茂七は討ち入り、お袖は夫の与茂七、と互いに一番大切にしているものがすれ違っている。その溝が二人のやりとりから明らかになり、そのことが、お袖に横恋慕する直助いじめへの共同意識を生んで、後の与茂七殺しの動機に繋がっていく……はずなんだけど、そこまでの感情の流れが、初演では演出的にうまく表現できてなかったですね。それから、乞食に身をやつした赤穂浪人の奥田庄三郎が出てくる場面。乞食仲間とわいわいやっている姿を、初演ではカットしたんです。でも、討ち入りという大きな使命を背負う一方で、乞食だからこそ気楽に過ごせる幸福な時間がそこにはあったのかもしれないと考えて。だから今回はこの場面を復活させて稽古をしています。たとえ小さな役でもこういう二面性をきちんと見せないと、この作品のベースになる、討ち入りの重要さも、無意味さも、見えてこない。もっといえば、それじゃあ南北劇にはならないんです。

木ノ下 僕は今回、原作を読み直して、補綴の台本自体を改訂しました。今ならもっと大胆に変えたり、言い換えられるところがいっぱいあるから、まずはそういうところをチェックして、全体を隈取ろう、というつもりだったんですが、結局、一言一句が気になり始め、かなりの変更になっちゃいました。初演の補綴台本ではカットしていた場面を復活させたり、逆に、冗長なところは大胆にシャープにしたりして、新しい補綴台本にしました。補綴時に大切にしたのは、邦生さんの話にもあった〈二面性〉。たとえば2幕の浪宅の場で、伊右衛門がお岩の大事にしている櫛を質屋に持って行こうとする場面がありますが、3幕の三角屋敷でも、直助とお袖の間で同じ会話があるんです。ふた組の貧乏なカップルの間で同じやりとりが繰り返される。でも、そこに流れる男女の感情は異なる。そういう仕掛けが、この作品にはたくさんあって、登場人物たちほぼ全員が、誰かとの対比の中で描かれている。対(つい)になっているんです。そのあたりがくっきり出るように、今回はあえて似た台詞をループさせたりしています。それもまた、今の邦生さんに演出してもらうのには、いい演目だなと思うところです。邦生さんは、この前の『勧進帳』(2016)でも、義経の家来衆と冨樫の家来衆の違いを見せつつ、どちらにも希望があり絶望がある描き方をしていました。物事の二面性を描くことに長けた演出家ですよね。しかも、どちらが善で、どちらが悪ということではなく、両方の平等な眼で見据えた上で、繊細に描いていく。そんな細やかな拾い取り方ができれば、今回の『四谷怪談』も本当に恐ろしいものになるんじゃないかと思います。

杉原演出の核は「ナチュラル」?

    再演にあたっては、木ノ下さんの改訂版補綴台本をもとに、さらに杉原さんが上演台本をいちから書いたそうですね。

杉原 2014年の『三人吉三』から、初めは一部のシーンだけでしたけど、本格的に上演台本を書くようになりました。前は稽古場で「じゃあ、ここは現代語にしましょう」みたいな感じで進めてたんですけど、それだと語調が揃わなかったり、どうしても判断を急ごうとしてしまったりする。作品の基本となる言葉を考えるのに、そのやり方はあまり良くないなと思い、まず自分の中で仮説を立て、書いたものを稽古場に持って行くことにしました。で、今回もそれを「やる!」と宣言して、6時間分やりました(笑)。初演では、武家の価値観が強く出ているところは歌舞伎の台詞、そうじゃないところは現代語というように言葉を分けていたんですけど、それだけだとわかりやすい反面、二分化されすぎちゃうところがあって。人間ってそこまで単純じゃないし、同じ人でも状況によって、いろんな判断をして言葉を発しているものですよね。そういうことが見えないと生々しくはならない。それで、今回は同じ現代語とのミックスでも、もっと細かい「ない交ぜ」を目指すことにしました。初演よりずっと言葉を入り組ませ、混乱させ、かつ役柄はもっとクリアに見えるように。だから、大胆だけど、すごく慎重に考えながらやっています。どうしてここで語調が変わるのか、同じ歌舞伎のせりふでも、完コピ(※3)のままいくのか、もう少し現代語調に寄せるのか……。

木ノ下 逆に現代語なんだけど、歌舞伎の抑揚にするか。また、その抑揚の度合いもいろいろあるし、無数に選択肢はありますからね。言葉の使い分けは、初演とは比べものにならないくらい豊かに、複雑になってますよ。

    現代劇で歌舞伎演目を扱うと、いかに現代的で新しい解釈が示されるか、新鮮な趣向が見られるかという方向に、観客の関心は向きがちです。ところが、先ほどの二面性の話や今の言葉の話もそうですが、近年の木ノ下歌舞伎の杉原さんはむしろ、かなり正攻法なテキスト分析にもとづいた舞台を立ち上げようとしているようにも見えます。

杉原 確かに作品への向かい方がナチュラルにはなったと思います。一応、従来の歌舞伎や上演の歴史に対して新しいかどうかってことは、先生にも聞くんです。ただ、自分の取り組み方としては、新しいことをしよう、変えようという意識は全然なくて、歌舞伎ではこう見えるけど実際は違うじゃん、みたいな気づきから始まって、だったらこの美術じゃ観られないよね、空間はこうしよう……みたいな流れになってきた。

木ノ下 邦生さんの作品がポップであることは変わりないし、祝祭性だって、実は増してるくらいですけどね。

杉原 「おまつり」でごまかすんじゃない祝祭性がね。たとえば2010年の『勧進帳』のときはまだ、どうやってやるかっていう〈HOW〉の方が強かったと思います。だからここ、3、4年かな。やっぱりそれは、柴幸男くんや松井周さんと書き下ろし新作をつくって(※4)、作家や原作に対するリスペクトの質が変わってきたからだと思う。作家って命をかけて戯曲や台本を生み出す、言葉を生み出していく人間なんだなってことを改めて思った。それと、KUNIO11『ハムレット』(2014)で新訳をつくったことも大きい。僕は英語が得意じゃないけど、翻訳家(桑山智成)と一緒に原本から上演のための言葉をつくり上げることで、あらかじめ用意された翻訳言語ではなく、直にシェイクスピアという作家に触れることができた感じがしたんです。そういういろんな体験が、今の「ナチュラル」って話につながってきてる気がします。

木ノ下 面白いですね。邦生さんが、キノカブ以外で、いろんなところを横断しながら作品をつくってきたことが全部武器になっていく。外部から演出家を招いて創作する醍醐味もここにあります。演出家の智慧とか手法をキノカブが借りる。その分、古典の現代化はいろんな方向から推し進められるようになる。同時に、歌舞伎演目に取り組むことで、演出家に新しい武器が加わるといいなぁとも思っています。双方が豊かになっていくような道をつくりたい。だから僕は木ノ下歌舞伎だけやってる座付き演出家がほしいなんて思ったことがない。それだと、どんどん視野が狭くなりますから。

    とはいえ、杉原さんにしても、長年歌舞伎演目に取り組んでいれば、よくも悪くも知識も得て、マニアックになる危険と隣り合わせでいるわけですよね。

杉原 ですね。だから、僕は原作は読むけど、研究はしない。やっぱり演出家として、観客の目を持ち続けていたいから。南北が何年生まれで、その時代背景は、なんてことは、観る人のほとんどが知らないはずです。そういう人たちに向けて、この物語が何をいわんとしていて、今上演する意味がどこにあるのかを伝えるには、自分も「知らない人」でないと。だから、歴史的なことやこれまでの上演の文脈、その中でこの舞台がどんな位置を占めるのか、演出的にここを強めると別の方向性が見えてくる、というようなことは、全部、プロフェッショナルである先生(木ノ下)に任せて、僕は「知らなーい」って(笑)。

木ノ下 でもこれね、ただの無知じゃないんです。「あえて」だってことは是非とも言っておきたい。原作をものすごく読み込んで、考えることは120%やる。でも「あえて」そこより先には踏み込まない。踏み込みたいときには僕に聞く、っていうのが、邦生さんのつくり方になっているんです。

※1)
面相の変わったお岩が、伊藤家を訪ねるために女性としての身だしなみを整えようと、お歯黒をつけ、髪を整えるシーン。

※2)
木ノ下歌舞伎は2006年、杉原邦生演出による“髪梳きの場”を含む三幕目を抜粋した『yotsuya-kaidan』、木ノ下裕一演出による『四・谷・怪・談』の連続上演で幕を開けた。その後、2013年に『東海道四谷怪談―通し上演―』を実現し、今回で4回目の上演となる。

※3)
完コピ=完全コピー稽古。歌舞伎の舞台映像を見ながら、その台詞の抑揚や身体の動きを俳優が完全コピーしていく木ノ下歌舞伎独自の稽古方法。この稽古に、稽古期間の半分を費やすことも。

※4)
杉原は、KUNIO12『TATAMI』(2015)で劇団ままごとの柴幸男氏に、KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ルーツ』(2016)で劇団サンプルの松井周氏に、それぞれ新作書き下ろしを依頼し、劇作家とタッグを組んで作品創作をおこなった。

(後編に続く)
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