真相は〈藪の中〉、ミステリ『摂州合邦辻』の解けない謎

のコラムでは『摂州合邦辻』終盤の展開に言及しています。

稲垣貴俊

「将来を約束されたはずの青年が、突如として謎の病にかかって失踪した。継母である女は青年を愛し、同じように姿を消す。青年を追い込んだものはなんだったのか、なぜ継母は姿を消さねばならなかったのか。二人の真意はいかに……」。

『摂州合邦辻』の物語をこのように整理してみると、この作品が、まごうかたなきミステリであることがわかる。ミステリには「誰が犯人なのか(Whodunit)」「いかにして事件が起こったのか(Howdunit)」「なぜ事件は起きたのか(Whydunit)」の三要素があるが、そのすべてが入っているのもポイントだ。

「『摂州合邦辻』とはミステリである」と記した以上、さっそく事件の真相をつまびらかにしてしまうのも気が引けるが、これほどの古典演目だからネタバレにはならないだろう。青年・俊徳丸の病は、実は継母である玉手御前が仕組んだもの。俊徳丸の兄・次郎丸が、家督相続をめぐって弟を殺そうとしていることを知った玉手は、俊徳丸に毒酒を飲ませ、病を発症させて家督相続を断念させたのだ。また、俊徳丸に玉手の生血を飲ませれば、病はたちまち治る。玉手は兄弟を守りながら、病に苦しむ俊徳丸を救うため、恋に狂ったふりをして、ひっそりと計画を実行に移したのだった。

“優れた物語にはすべてミステリの要素がある”という話もあれば、もともと歌舞伎とミステリは親和性が高いともいわれる。歌舞伎俳優や歌舞伎小屋、歌舞伎演目をモチーフにしたミステリ作品が古くから現在まで数多生み出されてきたのもそれゆえだろう。しかし、ミステリとしての『摂州合邦辻』の特徴は、かくもミステリらしい要素を備え、丁寧に回収しておきながら、それでも割り切れなさが残るところだ。

『糸井版 摂州合邦辻』[2019] 撮影:東直子 提供:ロームシアター京都

「信頼できない語り手(Unreliable narrator)」というミステリの要素がある。これは物語のナレーターや登場人物の語りが真実ではない、あるいは真実かどうか疑わしいがために、読者や観客を混乱させる手法のこと。『摂州合邦辻』の“犯人”である玉手は、前半と後半で人物像をがらりと変貌させ、そのうえ、どちらにおいても裏表のない振る舞いをする。前半、息子の俊徳丸への恋心を熱く語り、一緒になりたいばかりに両親さえ裏切る様子はまさしく恋ゆえの狂気。しかし後半、事件の一部始終を自白する玉手は、突如として、すべては家族のため、自分の使命のためだったのだと語る。別人のように異なる玉手像には、観客の「すべては俊徳丸と家族のためだったんだ、よかった、よかった」という素朴な理解を拒むような不穏さがある。もしかすると、本当に玉手は俊徳丸に恋をしていたのかもしれないと思わせるのだ。ならば、結局どちらの玉手が〈ほんとう〉だったのだろう?

この『摂州合邦辻』最大の謎については、幾度となく議論が繰り返され、上演ごとの演出や解釈に真相が委ねられてきた。歌舞伎から浄瑠璃に遡り、玉手自身の言葉ではなく「地の文」すなわち文字通りの「語り」を確かめてみても、特に終盤の玉手については客観的な描写が多く、彼女の真意を確定できる箇所は著しく少ないのである。

ミステリとしての『摂州合邦辻』といくつもの共通点をもつ作品に、黒澤明監督の映画『羅生門』(1950)がある。芥川龍之介の短編小説『藪の中』『羅生門』に基づく本作では、ひとりの武士が殺された事件をめぐって、下手人と思しき盗賊、被害者の妻、被害者本人の霊、そして遺体発見者がそれぞれの主張を口にする。しかし、事件の経緯と真実にまつわる証言はそれぞれ食い違い、一向に真実は明らかにならないのだ。

『羅生門』ポスター

『摂州合邦辻』と映画『羅生門』の共通点は、「誰が犯人か」「いかに事件が起きたのか」「なぜ事件は起きたのか」の三要素だけではない。“結局、真実は各人の解釈にこそある”という点、それぞれ長い歴史の中で織り上げられたミステリであるところも一致するのだ。『摂州合邦辻』の場合、もともとはインドの古典が日本に入って「しんとく丸伝説」になり、さらに能『弱法師』や説経節『しんとく丸』『愛護の若』、浄瑠璃『莠伶人吾妻雛形(ふたばれいじんあづまのひながた)』と形を変えながら、そのつど要素を吸収し、影響を受けて『摂州合邦辻』に至った。同じく映画『羅生門』も、平安時代の説話集「今昔物語集」を基に、芥川が小説『羅生門』『藪の中』を執筆、二つの作品を黒澤明と脚本家の橋本忍が融合させて映画化したという経緯がある。

さらに言えば、両作はその後の歴史も豊かだ。映画『羅生門』はヴェネツィア国際映画祭やアカデミー賞などで賞賛を受け、アメリカで『暴行』(1964)としてリメイクされたほか、後続のあらゆる物語に大きな影響を与え、公開70周年を迎えた2020年にはハリウッドでのテレビドラマ化も企画されている。同じく『摂州合邦辻』も、文楽や歌舞伎で演じられ続け、俊徳丸らの物語は三島由紀夫『弱法師』や寺山修司『身毒丸』などで語られ直してきた。たとえば『身毒丸』は蜷川幸雄による演出版が有名だが、作り手の世代を問わず、現在まで、あらゆる解釈のもと上演されてきた作品だ。

さて、心理学や社会学には「羅生門効果(Rashomon Effect)」という言葉がある。映画『羅生門』を語源とするもので、「人々の主張や証言が一致せず、互いに衝突すること」の意だ。『摂州合邦辻』の玉手の〈ほんとう〉が何だったのか、その真実が解釈にこそあるのだとすれば、ずいぶん以前から俊徳丸と玉手御前の物語は「羅生門効果」のさなかにあったことになる。あらゆる人が長年にわたって解釈し、分析してきたという状況こそが、この謎を補強し、真相をどこまでも〈藪の中〉に隠すのだ。しかし、現実の未解決事件がいつまでもドキュメンタリーやルポルタージュで扱われるように、真実不明の謎解きが終わることはない。 木ノ下歌舞伎による『糸井版 摂州合邦辻』もまた、この謎をどう解き直すか、そこにどんな視線をもたらすかという捜査だといえる。いつまでも答えにたどりつけないミステリである『摂州合邦辻』だが、もし劇場で「これが答えかもしれない」と新たに気づくことがあったなら、それも確かにひとつの答えだろう。もっとも、そうやって謎を暴いた(と思えた)時に暴かれるのは、「あなたが玉手の〈ほんとう〉をどう受け止めたか」ということなのかもしれないけれど。