ちょい足し人物ファイル ー『義経千本桜』をより楽しむための人物紹介

隆盛を誇っていた平家による政権が崩壊し、鎌倉幕府誕生のきっかけとなった源平合戦。この歴史的事件を背景に描かれた『義経千本桜』は、それまでの歴史を知っているとさらに楽しめる作品となっています。
そこで今回は、源平合戦の火種となったとされる保元・平治の乱(1156-1160)から治承・寿永の乱(1180-1185)の時代に生きた人物を取り上げ、文学作品のエピソードを引用しながらそのキャラクターをご紹介します。
なお、ここでは木ノ下歌舞伎『義経千本桜-渡海屋・大物浦-』に登場しない人物にも触れています。

目次

白河天皇(1053-1129)

「天皇から上皇になって院政敷いてさ、すげえ権力握ってさ、そしたら思い通りにならないもんなんて鴨川の水と、あと双六の…」

白河院御影
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 平安京遷都から300年余り、貴族が政治の中心を担っていた時代。天皇家は、貴族が私有地(荘園)を所有し、私腹を肥やすことで国全体の税収が減ることに頭を悩ませていました。荘園の整理令を発布して国家財政の立て直しを図った父・後三条天皇に対し、白河天皇は上皇となって実質的な政治を掌握する「院政」という法の抜け道を編み出します。新しく建立した寺院に荘園を持たせて蓄財に励んだり、天皇の指導者という立場を利用して任命した官僚から上前をはねたりと、公領と荘園、2つのルートから天皇家の私有財産を増やしていくことに成功し、莫大な財産と権力を握りました。また、それまで優秀でありながらも家柄や身分によって重職につけなかった人々を積極的に登用したため、信西入道や平忠盛などが政界に関与し、のしあがるきっかけを作ったとも言われます。

 1072年に即位(第72代天皇)し、1086年に息子である堀河天皇に譲位。その後も孫にあたる鳥羽天皇、さらにひ孫の崇徳天皇と3代、43年間にわたって院政を敷き、天皇を超えた政治権力を行使する様から、以降院政を行う上皇を「治天の君」と呼ぶようになりました。『平家物語』(巻一・願立)には、『「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心に叶はぬもの。」と、白河院も仰せなりけるとかや。』と書かれており、治水が難しかった賀茂川、出る目を操作できない双六のサイコロの目、朝廷に幾度と強訴を行った僧兵だけは自分の思い通りにならない(=これ以外のものは思い通りになる)、と愚痴をこぼした記述からもその専制ぶりが伺えるでしょう。

祇園女御

 生没年や出自が全く明かされていない謎多き女性ですが、晩年の白河院の寵愛を受け、政界にも強い影響力を持った人物とされています。

 『平家物語』(巻六・祇園女御)では、平忠盛(清盛の父)が手柄を上げた褒賞として祇園女御をもらい受ける場面が登場します。この時祇園女御は懐妊しており、生まれてくる子が男の子であれば忠盛との子として育てることを条件に、忠盛の元に嫁ぐのでした。祇園女御は男児を出産し、忠盛は子供の成長を伝えるため、ぬかごという芋を持って白河院の元を訪れます。

「いもが子は はふほどにこそ なりにけれ」
芋の実が重たくなって地面に這う様子になぞらえて、あなた(=いも=妹)の子ははいはいが出来るほどになりましたと伝えたところ、白河院もそのことに気づいて下の句を継ぎました。

「ただもり取りて やしなひにせよ」
表向きは「よく育った芋をただただ盛るほどたくさん取って、食料にしなさい」という意味ですが、「ただもり(=忠盛)」が子として養育しなさいというメッセージが込められています。

 しかしこのとき祇園女御は40歳を超えていたため、懐妊していたという事実は信憑性に欠けるといった指摘もあります。また、忠盛の妻は祇園女御の妹だとする記録や、白河院に仕えていた女房だとする文書もあり、清盛の出自については謎に包まれたままになっています。

鳥羽天皇(1103-1156)

「で、わかってると思うけど、後白河もお前の弟だから、お前さんは未来永劫、院政敷けないから。あ、で、俺もう寿命で死ぬから。あとよろしく

鳥羽天皇画像(安楽寿院所蔵)

 1107年に即位(第73代天皇)し、白河院の養女・待賢門院璋子を妻に迎え、後の崇徳院、後白河院などをもうけます。白河院の死後、後ろ盾を失った待賢門院に代わって美福門院得子を寵愛し、彼女との子である近衛天皇を当時3歳という若さであったにもかかわらず即位させました。当時天皇であった崇徳天皇は強引に皇位を奪われたのです。近衛天皇の死後、鳥羽院の意向で後白河天皇が即位したことで、自身の子が即位することを願っていた崇徳院は、不満を抱き(天皇の直系でないと上皇であっても院政を敷くことができないため)、鳥羽院の崩御をきっかけに保元の乱を起こしました。保元・平治・治承と続く戦乱の世のきっかけとなった人物といえます。

 『保元物語』の冒頭には、鳥羽院が不思議な光景に遭遇する場面が登場します。熊野参詣に赴いたところ、宝殿の御簾の下から幾度となく打ち返す童子の手を目撃する、という場面です。そして鳥羽院は、熊野の霊験あらたかな巫女にその光景の意味を占わせるのでした。すると巫女は、「手に掬ぶ水に宿れる月影の あるかなきかの世にもすむかな(手にすくった水に映っている月影のように、本当にこの世は儚いものだ)」という紀貫之が最期に詠んだ和歌を詠じ、涙ながらに翌年の秋の鳥羽院の崩御と世の動乱を予言したのです。その後鳥羽は告げられた通りの寿命を迎え、保元の乱が起こって戦乱の世の幕開けとなるのでした。

 ちなみに、『保元物語』は軍記物語でありながら、和歌に始まり和歌に終わるという面白い構成が取られています。熊野の巫女の和歌によって予言された戦乱は、西行法師が和歌の力をもって収束させるというラストを迎えるのです。

崇徳天皇(1119-1164)

「くそ、院政やりたかったな。絶対呪ってやる、化けて出てやるからな。」

歌川国芳『百人一首之内 崇徳院』
(大英美術館|https://www.britishmuseum.org/collection/object/A_1906-1220-0-1232

 鳥羽院政下でほとんど政治権力を持たないまま、1123年に即位(第75代天皇)し、1147年に鳥羽院の意向で皇位を弟・近衛天皇に譲位することになり、父・鳥羽院に対する不満を募らせていきます。その後近衛天皇が夭逝し、その死因が崇徳上皇による呪詛であると噂されたことで、ますます父子の確執は深まりました。

 保元の乱での敗北後、崇徳院は讃岐に配流されます。『保元物語』では、後世のために写経した大乗経を鳥羽院の墓に納めたいと送ったところ、後白河天皇がこれを許さずに突き返したと記されています。この対応に激怒した崇徳院は、「此経を魔道に廻向して、魔縁と成って、遺恨を散んぜん(この経を悪魔が住むという魔道に寄進して、我が身は悪魔そのものになって恨みを晴らそう)」と言って、ついには生きながらにして天狗になったと伝えられています。そして崩御後、平治・治承・寿永の乱は崇徳院の祟りによるものだと信じられるようになり、平将門、菅原道真と並んで日本三大怨霊と称されました。

 このように怨霊伝説ばかりが注目される崇徳院ですが、『今鏡』には幼い時から和歌を好んで歌会を開いていた様子が記され、当時の宮廷文学サロンの中心となった優れた歌人としての一面を見ることができます。「花は根に鳥は古巣にかへるなり 春のとまりを知る人ぞなき」という崇徳院の和歌は、一般的に暮春を惜しむ歌といわれていますが、「花も鳥も帰る場所があるのに、帰るあてのない私は一体どこへ行けばいいのか」という風にも読むことができます。父に疎まれ、計り知れない孤独を抱えた彼の叫びの一首とも解釈できるのではないでしょうか。

源頼政(1104-1180)

「この源頼政、保元、平治の乱より清盛様とともに戦い、源氏でありながらも高い地位に就き、もはや余生を送る身なれども、目に余る平家の横暴。老いぼれても源氏の端くれ、このままでは死んでも死に切れませぬ。今こそ平家討伐の旗を揚げましょう。」

月岡芳年『月百姿』
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 保元・平治の乱で平清盛に味方したため、平氏が全盛を誇った時代にも政治の中心に関わっていた源氏の長老です。『平家物語』(巻四・鵺)には、和歌によって昇進をねだったというエピソードがみられます。

「昇るべきたよりなき身は木のもとに 椎を拾ひて世を渡るかな(=木登りの術がない私は木の下で地に落ちた椎の実を拾って暮らしていくのだ)」

 長らく正四位に留め置かれた頼政は、落ち散った「椎」と「四位」を掛けて自身の不遇と昇進の願いを切実に訴え、この和歌によって従三位に昇進しました。そして『平家物語』では一弓で鵺という妖怪を退治し、その功績を讃えた和歌に優れた返歌をしたというエピソードが続きます。文武両道の秀才ぶりと、クールなしたたかさを持った人物であることが分かるでしょう。また、武家が台頭してきた時代といえど、和歌の文才によって昇進が叶うという風流な貴族スタイルがまだ残る時代の転換期であることも伺えます。

 このように平氏に取り入って出世した頼政でしたが、清盛の横暴ぶりを見兼ねたのか、晩年になって後白河院の息子・以仁王を担ぎ出し、打倒平家の反旗を翻しました。しかし謀反は露見し、準備不足のまま挙兵せざるを得なくなり、宇治の平等院にて敗れます。痛手を負った頼政は「埋れ木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ悲しかりける」という辞世の句を詠み、自害して果てたと伝えられています(『平家物語』巻四・宮御最期)。埋れ木が咲くこともなくひっそりと枯れていく状況に、頼政自身の不本意に終わっていく人生だけでなく、それまで不遇な扱いを受けてきた源氏の立場をよそえているようにも感じられる哀愁の漂う歌です。

 以仁王と結んだ頼政は、諸国の源氏に平家打倒の計画を記した令旨を伝える役を担いました。この際に発布された令旨の効果は絶大なもので、これによって諸国の源氏が手を組み、蜂起するのでした。平家滅亡のきっかけとなった人物であるともいえるでしょう。

平滋子(1142-1176、建春門院)

 平時子(清盛の妻)の異母妹。後白河院の寵愛を受け、高倉天皇を出産します。対立関係にあった義兄・清盛と夫・後白河院の間を取り持っていましたが、35歳という若さでこの世を去ります。これによって清盛・後白河院の関係は悪化し、滋子の死後1年も経たずして鹿ケ谷事件が起こりました。これをきっかけに治承の乱が起こり、いわゆる源平合戦に突入していくのです。

 建春門院に仕えた女房が宮廷生活を回想する日記文学『たまきはる』では、その類い稀な美貌と几帳面で気丈な振る舞いの数々が伝えられています。また常に自らを律し、「我心をつつしみて身を思ひくださねば、おのづから身に過ぐる幸ひもあるものぞ(自分の心をしっかりと持って自分自身を粗末にしなければ、自然と身に余る幸運もあるものです)」と語るなど、慎ましやかな性格も伺えます。『平家物語』では、後白河院の代わりに政務を行い、親戚の昇進を後押しするなどかなりの策略家という印象を受ける建春門院ですが、これは軍記物語上での役割に過ぎず、本来の素顔は少し違った女性だったのかもしれません。

平徳子(1155-1214、建礼門院)

月岡芳年『新撰東錦絵』 「源九郎判官義経壇之浦ニ建礼門院ヲ救助ナス図」
(MRAH所蔵、ARC浮世絵ポータルデータベース収録|https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-MRAH_JP_04894a

 平清盛の娘。高倉天皇に入内し、安徳帝を産んだ平家全盛期のキーマンといえる女性です。壇ノ浦では二位尼と安徳帝の後を負って海に飛び込みましたが、助けられて都へと送還され、出家してひっそりと平家一族の菩提を弔ったと伝えられています。

 『平家物語』(灌頂巻「大原御幸」)には、建礼門院のもとを後白河院が秘かに訪れ、対面する場面が登場します。栄華を誇った宮廷生活とは真反対の侘しい庵で、硯の蓋を取って手慰みに綴ったのは読み人知らずの有名な古歌でした。

「ほととぎす花橘の香をとめて なくは昔の人や恋しき(ほととぎすよ、花橘の香を探し求めて鳴くのは亡くなった人が恋しいからでしょうか)」

 和歌のルールにおいて死の国を連想させるほととぎすと、その香りによって故人を思い出させる花橘を詠みこんだかなり強い追憶・恋慕の歌です。これをしたためた建礼門院が思い浮かべるのは、それまでの数多の戦で散っていった平家一門だったのではないでしょうか。

 そして後白河院との対話を通して、建礼門院はこれまでの人生を回顧し、ある夜見た夢の話を始めます*。夢見の内容は本によって多少の相違がありますが、『平家物語』(延喜本巻十二「法皇小原へ御幸成事」)では、海中の異界である龍宮城に閉じ込められた知盛が「一日三時ノ患アリ。助テタベ」と言って、その苦患からの救済を求めたという内容になっています。この夢見語りによって、建礼門院は死者の声を直接後白河院に伝えるのです。平家の生き残りとして彼女に託されたのは、亡魂を呼び寄せ、地獄の苦痛を再現し、供養を願う巫女のような役割だったのかもしれません。

*注)覚一本では、建礼門院が夢を見たのは壇ノ浦から都へ送られる途中の明石の浦でのこととされている。一方、延喜本では「とある日不思議な夢をみたことがあった」と具体的な時期や場所の表記はされていない。しかし、夢に登場する平家の亡魂に平宗盛(壇ノ浦で入水せず、捕虜となってのちに斬首された)が含まれていることから、延喜本の夢見は宗盛が処刑された文治元年6月以降となり、大原での出来事ではないかと推測されている。

この記事を書いた人

1995年高知県生まれ。幼い頃より歌舞伎や文楽に親しみ、6歳より義太夫三味線を竹本弥乃太夫師に、10歳より邦楽囃子を田中佐幸、望月庸子両師に師事。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校を経て、同大学音楽学部音楽環境創造科卒業。古典作品をモチーフにした義太夫節による楽曲創作と、それを使用した演劇・舞踊作品の上演を行なっている。2018年より木ノ下歌舞伎に所属。

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