【義経千本桜】“逆襲”のピカレスク・ロマン―渡海屋・大物浦―

木ノ下歌舞伎文芸部・稲垣 貴俊


 「義経千本桜」は、1747年11月、大坂竹本座にて人形浄瑠璃の演目として初演されました。当時からさらに600年ほど以前、1180年代に起きた源平合戦(治承・寿永の乱)を下敷きに執筆されたこの演目は、現在でも「菅原伝授手習鑑」や「仮名手本忠臣蔵」と並ぶ三大傑作として語られています。
 そんな「義経千本桜」の二幕目にあたる「渡海屋・大物浦の場」は、源平合戦最後の戦闘となった壇の浦の戦いで、平家総大将・平知盛(※1)や安徳天皇(※2)らがもしも入水せずに生き延びていたら……という、いわば〈歴史ifもの〉の性格を強くもつ物語です。平知盛と安徳天皇、乳母の典侍局は、大物[だいもつ](現在の兵庫県尼崎市)にて渡海業を営む銀平とおりう、その娘のお安として生活を続けています。しかしその真意は、平家を滅亡に追い込んだ源義経に対する“復讐”でした。ある時、兄・頼朝に追われる身となった義経は、九州へ逃れるべく知盛(銀平)らの渡海屋を訪れます。その時を待っていた知盛ら一同は嵐の海に義経一行を送り出すと、知盛は壇の浦の戦いで入水したとされる自分自身の幽霊に姿を変えて、海上で義経を襲撃します。しかし義経は知盛らの目論みをすでに察しており……と、これが物語のあらすじです。

 「渡海屋・大物浦の場」は〈歴史ifもの〉だと書きましたが、もう一つ重要なのは、この物語が〈ピカレスク(ならず者)・ロマン〉の性格を同時にもっていることでしょう。
 かつて栄華を誇っていた平家は、一の谷の戦い・屋島の戦いで義経の奇襲を受けて敗走を繰り返し、ついに壇ノ浦で滅亡します。敗者である平家総大将の知盛は、この正史ではまさに「ならず者」に他ならない存在です。そんな知盛が正体を隠しながら復讐の時を待つという筋立ては、たとえばアレクサンドル・デュマによる『モンテ・クリスト伯』(※3)をはじめ、文学や映画でも数多く作られている“実は生きていた主人公による復讐劇”にもよく似ています。義経に計画を見破られたのち、知盛は碇を身体に巻いて入水を果たしますが、こうしたクライマックスにおける“失敗/破綻”まで含めて、この物語は〈ピカレスク・ロマン〉のフォーマットで語ることができそうです。

 では、「渡海屋・大物浦の場」は、現代の感覚で鑑みれば“よくある”物語なのか……といわれれば、決してそういうわけではありません。二つのポイントから、この物語がいかに稀有な構造を持っているかを確認してみましょう。
 まず一点目は、「義経千本桜」という物語を支える“下敷き”です。はじめに記した通り、この演目は、物語全体が源平合戦という歴史的事実を下敷きにしています。すなわち「渡海屋・大物浦の場」では、史実を踏まえた〈歴史ifもの〉の枠組みのなかで〈ピカレスク・ロマン〉の筋立てが仕掛けられているのです。また江戸時代は、能「船弁慶」などの存在も手伝い、平家の幽霊が西海に現れるという伝説が広く知られていました。知盛が自らの幽霊に扮して義経を襲撃するという趣向は、この伝説をもとに創作されています。
 また二点目は、知盛が義経を陸上ではなく嵐の海上で襲撃することです。この復讐計画は、そもそも、史実で知盛自身が源氏に敗れて入水した「壇の浦の戦い」の〈再現〉でなければなりませんでした。知盛による計画の目的は、知盛個人の恨みを晴らすことではなく、平家軍や安徳天皇も含めた大きな怨恨を晴らすことにあります。したがって知盛は、ただ義経を殺せばいいのではなく、歴史を〈再現〉する、もっといえば歴史を“やり直す”ことで復讐を果たさねばならなかったのです。

西海に現れるといわれた平家一門の幽霊を描いた絵。 桃山人著・竹原春泉画『絵本百物語』第三巻(1841年)より。

西海に現れるといわれた平家一門の幽霊を描いた絵。
桃山人著・竹原春泉画『絵本百物語』第三巻(1841年)より。

 源平合戦という「歴史的事実」と、平家一門の幽霊が現れるという「伝説」を下敷きに、〈歴史ifもの〉という枠組みのなかで〈ピカレスク・ロマン〉の物語を描き出しながら、歴史の“やり直し”を試みる……。「渡海屋・大物浦の場」はそうした非常に複雑な構造をもっています。そのなかで紡がれる物語が、史実をモチーフとしたシンプルな“復讐劇”にとどまらないことは言うまでもありません。たとえば海上で義経を襲撃する知盛は、銀平として生き延びていた知盛でありながら、史実通り壇ノ浦で命を落とした知盛の幽霊でもあるでしょう。一方の義経は、敗者である知盛の襲撃を受けるとき、同時に勝者である自分自身の戦闘の歴史も突きつけられているはずです。
 平知盛の“逆襲”を描く〈ピカレスク・ロマン〉が、歴史の再現と結びつくとき、それは歴史の“逆襲”になる――。
 この劇構造の向こう側に、いまどんな歴史が浮かび上がるのでしょうか。木ノ下歌舞伎による『義経千本桜―渡海屋・大物浦―』、まもなく“逆襲劇”の幕が開きます。

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※1 平清盛の四男。源平合戦では平家軍の武将として活躍するも、壇ノ浦の戦い(1185年)にて追いつめられ、自ら入水による死を選ぶ。
※2 高倉天皇の第一皇子で、母は平清盛の娘である徳子(のちの建礼門院)。壇ノ浦の戦いにて、祖母・二位尼らとともに入水し崩御。数え年でわずか約8歳だった。
※3 無実の罪で監獄に送られた主人公エドモン・ダンテスが、脱獄して巨万の富を手に入れ、モンテ・クリスト伯爵を名乗って自らを追い込んだ人物に復讐する物語。日本では『巌窟王』という題でも有名。
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