お七の「罪」と吉三郎の「悪」

山道弥栄

歌舞伎屈指の名台詞「月も朧に白魚の 篝も霞む春の空」で知られる、『三人吉三廓初買』大川端庚申塚の場。可憐な娘姿に変装した盗賊・お嬢吉三は、自身を「八百屋のお七」だと名乗ります。河竹黙阿弥が『三人吉三』の筆をとった安政期から遡ること約180年前に、実際に江戸の町に生き、世間を騒がせた娘の名前が、なぜここに登場するのでしょうか。

天和の大火とお七

天和の大火で被災し、家族と共に菩提寺に避難したお七は、寺小姓の吉三郎と恋に落ちた。やがて新築された家に戻り、吉三郎になかなか会うことができなくなったため、再び家が焼けたなら恋しい吉三郎に会えると考え、近所の商家に火を付けた。幸いすぐに火は消し止められたが、お七は放火の罪で江戸市中引き廻しの上、火刑に処された。

天和3(1684)年、お七という娘が起こした放火事件は、当時の見聞記(註1)によってこのように伝えられてきました。しかし、お七の年齢や生家、身を寄せた寺や恋仲になった寺小姓の名前など、この事件に関する記録が諸説あることから、これらの見聞記の記述はすでに史実そのままではないという指摘がされています。つまり、「お七という娘が放火をした」という事実が伝わっているのみで、実在したお七の生涯や事件の真相は結局のところ明らかになっていないのです。

このように放火までの経緯が空白で想像の余地があったこと、また恋に身を焦がす娘が恋ゆえに放火に至り、そして最後は火に焼かれるという衝撃的な事件だったことから、この〈お七〉の物語は後世の作家の妄想を掻き立てる題材となりました。

「お七事件」脚色のはじまり

事件からほどない貞享3(1686)年、井原西鶴は彼女を『好色五人女』の題材として取り上げ、巻四「恋草からげし八百屋物語」を発表します。伝聞された事件の内容とストーリーはほとんど変わらないものの、西鶴はお七の恋心に着目し、吉三郎との〈二人の物語〉を紡ぎました。恋ゆえに火あぶりにされた娘〈八百屋お七〉の誕生です。人々は事件の真相を追い求めることより、お七の一心不乱な恋に熱狂しました。これによって「お七吉三郎」というカップリングが定着し、〈八百屋お七〉のストーリーの定型が成立します。放火事件のあらましは歌祭文によって全国に流布し、浄瑠璃や歌舞伎、落語など、さまざまな芸能のモチーフとして引用されていくのでした。

芳年「松竹梅湯嶋掛額」(国立国会図書館デジタルコレクションより)

火のないお七

西鶴以降、〈八百屋お七〉の物語は主に上方で戯曲化・舞台化されます。江戸でお七作品が初お目見得するのは宝永5(1708)年、実在のお七の二十七回忌追善演目として創作された『中将姫京雛(ちゅうじょうひめきょうひいな)』という作品でした。すでにお七役で評判を博していた嵐喜代三郎が江戸に下り、この興行は大成功を収め、以来喜代三郎の紋所である「丸に封じ文」の紋がお七の意匠として定着したとも伝えられています。

八百屋の養女であるお七が実は人買いに攫われた中将姫で、吉三郎は実はお家騒動を避けるために身分を隠す唐橋宰相であるという設定は、平安時代から語り継がれてきた中将姫伝説と〈八百屋お七〉が掛け合わされたものです。古典的な設定のなかで同時代の事件を扱う、つまり時代物を背景に世話物を描くというスタイルで物語が展開します。この演目の脚本は失われ、八百屋の息子との縁談を嫌がったお七が吉三郎に会いたさに養父を殺めるものの、情けによって最終的に出家するという大まかな筋書きのみが伝えられています。

ここで注目したいのは、古典の中将姫伝説を借用した結果、従来の〈八百屋お七〉とはかけ離れた物語となり、放火事件が取り除かれた「火」のないお七作品となったことです。「火」の不在は結果として、放火という罪に問われてきたお七を初めて「罪」から解放し、命の救済をもたらしました。

翻弄されるお七

次に、紀海音によって書かれた浄瑠璃『八百屋お七』(註2)を取り上げます。海音は歌祭文や西鶴の『好色五人女』を下敷きにしながら、お七と吉三郎を取り巻く周囲の人々へと視点を広げました。例えば、お七の父の名を久兵衛とし、吉三郎を安森源次兵衛の息子で勘当の身と定めています。また、お七と吉三郎の恋仲を邪魔する武兵衛とその相棒である太左衛門というコンビが、小坊主・弁長を味方につけ、お七を巡って吉三郎と対抗するという三角関係は、これまでにない金銭のやり取りという筋立てを生み出しました。武兵衛は、火事で焼けた家の普請代として二百両の大金を久兵衛に貸し付け、その代わりにお七との婚約を取り付けようと画策するのです。

お七と吉三郎の間にさまざまな人物が介入することで、それまでの二人の恋物語は、周辺の人々を巻き込んだ複雑な人間ドラマへと変化しました。後世の浄瑠璃や歌舞伎にみられる〈八百屋お七〉のキャラクター設定がふんだんに盛り込まれており、戯曲としての〈八百屋お七〉の出発点と位置付けられる作品と言えるでしょう。一方、主人公としてのお七の印象が相対的に矮小化したと指摘する研究者もいます。しかしながら、借金のかたに輿入れしなければならないという家族の義理と、吉三郎への恋心の間で激しく取り乱すお七は、私にはエネルギッシュに輝くヒロインとして映ります。吉三郎が残していった蓑笠に抱きついて狂乱状態となり、炬燵のなかで赤く燃える炭火を取り出したお七が、「恋に自分が煽られるよりも先に燃えてしまえ」と家財道具に火を放つシーンひとつをとってみても、主人公としてのイメージが色褪せているとは到底思えないのです。

ただここで、一人で罪を犯し、一人でその罪を負って死んでいく放火犯という、『好色五人女』に書かれたようなお七像は消滅し、周囲の人々との柵や義理人情に翻弄された結果として火を放つというお七像へ変化したと考えることはできます。世間知らずな恋娘でしかなかったお七は、コミュニティのなかに生きる一人の女性として生まれ変わりました。そのコミュニティへの反発としての放火が描かれていると言えるかもしれません。

この後、海音の死がきっかけとなり、『八百屋お七』には大幅な翻案が加えられるようになります。その先駆けとなったのが延享元(1744)年に初演された浄瑠璃『潤色江戸紫(じゅんしょくえどむらさき)』でした。華やかな新吉原の廓場や木挽町の芝居の場面が挿入されたり、吉三郎が重宝紛失事件のために奔走するというお家騒動の要素が濃くなったりと、演劇的に「見せる」ことに特化した派手な趣向が〈八百屋お七〉の物語に取り込まれていきます。

櫓のお七

さらに『潤色江戸紫』の翻案は続き、安永2(1773)年、菅専助らによって合作された浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』が初演されます。吉三郎が寺小姓となって紛失した重宝・天国(あまくに)の剣を詮索していたり、お七が父の借金のかたに武兵衛との縁談を進められていたり、これまでの〈八百屋お七〉にみられる筋立てが多く引用されていますが、この作品でお七は初めて放火犯ではなくなり、吉三郎を窮地から救うために禁令を破った科で火刑に処されます。放火の「罪」から解放されたお七は、吉三郎のために別の火に焼かれるのです。

天国の剣を盗んだのが武兵衛だと知ったお七は、その在処を吉三郎に知らせようとしますが、町の木戸は堅く閉ざされていて通行は叶いません。木戸が開かれるのは火事を知らせる火の見櫓の太鼓が鳴ったときで、火事でないときにこれを鳴らすのは禁令とされていました。お七は吉三郎を救いたいという一心で、火刑も厭わずに太鼓を打ち鳴らします。この「火の見櫓の場」がヒットし、〈櫓のお七〉という定型が生まれました。結末は史実と同じとは言え、お七の背負う「罪」は本質的に変容したと考えられるでしょう。平時に火の見櫓の太鼓を打つというお七の「大罪」は、その懸命さゆえに観客の胸を打ち、お七は「悪」の担い手ではなくなっていくのです。

これを受けて、完全な悪役として〈悪党の吉三郎〉が誕生します。この「悪」のスライドは、物語の焦点をお七から吉三郎へと移行させていきました。文政4(1821)年に初演された、四世鶴屋南北らによる歌舞伎演目『敵討櫓太鼓(かたきうちやぐらのたいこ)』をみてみましょう。吉三郎による敵討ちが主題ですが、彼が諸国を放浪するうちに八丈小僧吉三という悪党となってお七を騙して結婚し、やがて罪を悔い改め、吉三道心弁長と名を変えて出家するという設定が取られています。南北以前にも吉三郎に悪役を担わせた作品がありましたが、「吉三郎が悪役だとどうもお七の物語に思えない」と観客の不評を買い、早々に上演が打ち切りになりました。南北は当然その評判を知っていたと考えられますが、大胆にも自身が生み出した「色悪」というキャラクターを吉三郎に担わせ、吉三郎を八丈小僧吉三(色悪)と吉三道心弁長(和尚)という二つのキャラクターに分解したのです。ここに〈お七吉三郎〉の物語の解体の兆しが見られます。この作品は、「未刻の太鼓(註3)とお七を取組たる趣向大できなり」(『歌舞妓年代記続編』)と大評判を博しました。

三人の吉三郎

これらの流れを汲んだ黙阿弥は、安政7(1860)年、『三人吉三廓初買』において〈お七吉三郎〉の物語の活用と解体を両立しながら、独自の構想を展開していきます。南北による吉三郎のキャラクター分解をヒントに、八丈小僧吉三からお坊吉三を、吉三道心弁長から和尚吉三をそれぞれ導き、そこに八百屋お七の名を借りたお嬢吉三を加え、三人の吉三郎像を作り出しました。和尚の妹・おとせは西鶴のお七にみられるようなストレートな恋心と積極性を持っていると言えますし、無理に結婚を迫る武兵衛、武家の重宝・刀の盗難と大金が絡むという趣向もすでに先行作品で用意されたものでした。三人の盗賊の物語と文里一重による廓話を融合させるという一見突飛な発想も、『潤色江戸紫』の廓場からの借用と考えていいのかもしれないとさえ思えてきます。

このように〈お七〉をめぐる物語の変遷をたどってみると、『三人吉三』がいかに〈お七吉三郎〉に関連する作品群のモチーフを発展させた作品であるかがわかるかと思います。数多の先行作品によって『三人吉三』の土壌を豊かにし、その上に〈お七〉から派生したたくさんの人々を生きさせるという黙阿弥の趣向に、単に当時の出来事を切り取って芝居にするだけではない、歌舞伎作者としての手腕をみることができます。黙阿弥は『三人吉三』の表面から〈お七〉を消し去りましたが、作品のあちこちに彼女の面影を忍ばせました。同時に、天和の大火を連想させる〈お七〉にまつわるエピソードを散りばめることで、災害の歴史の上に江戸があることを私たちに実感させてくれていると言えるでしょう。


(註1) 実在したお七の手がかりとして注目されてきた記録に、貞享年間に成立したといわれている『天和笑委集』がある。しかし、登場人物の言動の細かさや語り口の饒舌さから作為性が指摘されており、当時上演されていた浄瑠璃や歌舞伎の影響を受けているのではないかとも推測されている。


(註2) 初演時の記録が明らかになっていないため、作品の成立年代について諸説あるが、正徳4(1714)年から享保2(1717)年の間に成立したと推定されている。


(註3) 先行作品である、享保12(1727)年に初演された浄瑠璃『敵討御未刻太鼓(かたきうちおやつのたいこ)』を指す。


[参考文献]

  • 新潮日本古典集成『三人吉三廓初買』(今尾哲也校注)、新潮社、1984年
  • 日本古典文学体系『浄瑠璃集 上』(乙葉弘校注)、岩波書店、1959年
  • 『鶴屋南北全集』8巻(廣末保編集)、三一書房、1972年
  • 有働裕「『天和笑委集』の諸本と成立について」『愛知教育大学大学院国語研究』24巻、2016年
  • 同上「「恋草からげし八百屋物語」試論(上)-西鶴と海音-」『国語国文学報』78巻、愛知教育大学国語国文学研究室、2020年
  • 大掛麻央「「『好色五人女』巻四 恋草からげし八百屋物語」の考察」『広島女学院大学国語国文学誌』39号、2009年
  • 諏訪春雄『愛と死の伝承:近世恋愛譚』、角川書店、1968年
  • 竹野静雄「西鶴-海音の遺産:八百屋お七物の展開」『日本文学』32巻7号、日本文学協会、1983年
  • 同上「八百屋お七物の輪郭-江戸小説を中心に-」『国文学研究』85号、早稲田大学国文学会、1985年

山道弥栄

幼い頃より歌舞伎や文楽に親しみ、6歳より義太夫三味線を竹本弥乃太夫師に、10歳より邦楽囃子を田中佐幸、望月庸子両師に師事。 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校を経て、同大学音楽学部音楽環境創造科卒業。2018年より木ノ下歌舞伎に所属。クマ財団クリエイター奨学生3期生。義太夫節や邦楽囃子の音楽的な豊かさと表現の可能性を追求し、古典作品をモチーフにした楽曲創作と、それを使用した演劇・舞踊作品の上演を行っている。