【勧進帳】敏腕P(プロデューサー)七代目團十郎の『勧進帳』P(プロジェクト)

木ノ下歌舞伎文芸部・関亜弓


「歌舞伎十八番」その成立と道筋

<十八番>とは、「得意なこと」という意味で日常的に使われる言葉です。しかしこの十八番とは、実は歌舞伎用語からきていることはご存知でしょうか(※1)。これは團十郎家に伝わる芸18種を意味する「歌舞伎十八番」に由来しますが、『勧進帳』は言うまでもなく、この歌舞伎十八番の一つです。制定したのは七代目市川團十郎(1791-1859)。役者として不動の地位を手に入れ、芸に脂の乗り切った42歳のときでした。みずから選定した18演目を明記した摺物(パンフレットのようなもの)を世間に配り(※2)、なかば声明文のような形でこの一大プロジェクトを発表しました。ところでなぜ七代目團十郎は、役者として栄華を極めていたにもかかわらず、みずから18種の演目をピックアップし、敢えて「歌舞伎十八番」と名付け世に知らしめる必要があったのでしょうか。
 
その背景を探ると、家の芸、つまり江戸荒事の権威の復活のためだった、と考えられます。話を初代團十郎の頃にまで翻りましょう。この頃の江戸は新興都市で、上方に比べて未だ文化的に遅れをとっていました。そこへ初代團十郎が生み出した<荒事>が登場します。強くてかっこいいヒーローが「弱気を助け強気をくじく」というわかりやすい構図が、庶民に受け入れられ、これが江戸を代表する芸になり得たのです。しかしその荒事は、二代目、四代目(三代は若くして病死)…と受け継がれる中で、はじめは成功の要因であったストーリーの単純さに飽きがきたのか、しだいに観客の熱が冷めてきてしまいます。また、七代目が團十郎を名乗っている頃、江戸っ子の興味はそれまでになかった歌舞伎、四代目鶴屋南北をはじめとする<生世話物>に移り始めます。生世話とは、当時の江戸時代の庶民の生活を生々しく描いた当時の現代劇。世相を批判したり、心理的な葛藤も描かれたりするようになりました。反面、荒事は人間離れした力の強い男が悪をなぎ倒すというような、単純明快、勧善懲悪の内容が多く、江戸の人にとっては既に物足りなくなってしまったのかもしれません。その「荒事離れ」に危機を感じた七代目は一念発起し、市川宗家の権威を取り戻すための大プロモーション戦略を打ち出します。それこそが、歌舞伎十八番の制定でした。
まずプロデューサーこと七代目の腕が光るのは、十八番の多様なラインナップです。『暫』や『矢の根』といった、筋肉隆々のスーパーマンが大暴れする、いわゆる<ザ・荒事>的な演目を中心に置きつつも、例えば二代目團十郎が得意とした、強さの中に色気のある侠客が主役の『助六』や、四代目が得意とした陰のあるダークヒーロー『景清』を入れるなど、「荒事だって首をポンポン抜くだけじゃない!」ということを示しています。更に、18種の中に唯一<新作>を組み込みました。それこそが『勧進帳』だったのです。

新作『勧進帳』謎の空白期間と七代目の大いなる賭け

しかし十八番を発表したとき、『勧進帳』は実体がなく、名前だけの記載でした。初演されたのは十八番制定から8年後ですので、いくら話題作りのための早い告知といっても、焦らし過ぎの感はあります。もしかしたら歌舞伎十八番という冠を世の中に浸透させ、価値あるものにしてから堂々と「歌舞伎十八番の内  勧進帳」とアピールしたかったのでしょうか。それとも十八番というのは、もともと『勧進帳』という新作を発表するためのプロジェクトで、他17作品を単なるハクづけに使ったとも考えられますが…どれも推測の域を出ません。しかし『勧進帳』が歌舞伎十八番のプロモーションの鍵であり、この新作の行方が團十郎家の家運を左右していたということには違いありません。
 
『勧進帳』成功への並々ならぬ意気込みは、スタッフの布陣からも見てとれます。自らは座頭兼プロデューサーに徹し、上演台本を当時の河原崎座の立作者・三世並木五瓶に依頼し、毎日のように自宅に呼びつけアイディアをぶつけていたようです。そして振付には四世西川扇蔵、長唄を四世杵屋六三郎(のちに六翁)に書き下ろさせるなど、当時の精鋭たちを集め綿密な打ち合わせのもと、クリエーションを行いました。興味深いことに、その末席には二十五歳の青年が常に座しており、幕が開いてからは狂言作者の見習いのような仕事(※3)をしていました。その青年の名は、勝諺蔵(かつげんぞう)。のちに世に名作を出し続ける狂言作者・河竹黙阿弥です。
 
また七代目は新作を創作する際、大いなる賭けに出たのです。それは、<能を歌舞伎化する>という試みです。当時、武家社会と密接に結びついていた能は、庶民のエンターテイメントであった歌舞伎と比べて格式の差があり、歌舞伎役者が能にかかわることなどタブーとされた時代です。それなのに七代目は能『安宅(あたか)』の要素を取り入れるだけでなく、舞台美術も能舞台を模すという、かなり破天荒なことをしています。しかし余りに寄せすぎると、上演禁止の恐れがあることも考慮してか、背景を松羽目(※4)の松より少し簡素なものにしたり、台本や、衣裳なども、あくまで歌舞伎での上演ということを意識していたようです。

七代目の弁慶。近年は黒に梵字(サンスクリット)を散らした水衣が衣裳として使われるが、当時はたて縞である。

七代目の弁慶。近年は黒に梵字(サンスクリット)を散らした水衣が衣裳として使われるが、当時はたて縞である。

七代目Pが役者生命、演劇人生命をかけてリリースした『勧進帳』は、当時の観客にどのように受け入れられたのでしょうか。記録によると、アバンギャルドで最新鋭の演劇に観客が戸惑ったのか、初演時の評判はふるわなかったそうです。しかしながら、その後の團十郎が工夫を重ね洗練されていき、今では安宅の関をもじって「またかの関」とまでいわれる上演頻度を記録しています。
 
江戸時代最先端だった『勧進帳』は平成の今、古典の代表作として知られていることはいうまでもありません。その古典や歌舞伎の代名詞ともいえる作品を、木ノ下歌舞伎の『勧進帳』は再び最先端に引き戻すことができるでしょうか。どうぞ劇場でお確かめください。

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(※1)歌舞伎十八番の成立以前、柳亭種彦の歌舞伎の草双紙『正本製(しょうほんじたて)』(文化12年−天保2年)でも、「十八番」を「おはこ」と読ませていた。そのため歌舞伎十八番が十八番の語源とは言い切れないが、一般に定着したのは歌舞伎十八番からだといってほぼ間違いない。

(※2)歌舞伎十八番を制定したのは天保3年3月『助六』を演じたときのこと。七代目が團十郎の名跡を、長男に八代目としてゆずったときのことだった。(みずからは海老蔵と改名)この時は「歌舞伎十八番の内」ではなく「江戸市川流、寿、歌舞妓狂言組十八番」と表現が多少控えめなところも興味深い。

(※3)狂言方といい、作者の前身にあたる。幕の開閉を知らせたり、役者のための台本をつくったり、プロンプターを勤めたりする仕事をした。諺蔵(黙阿弥)は弁慶役である七代目の台詞をすべて覚え後見の大役を果たし、この仕事が出世のきっかけとなったといわれている。

(※4) 松を描いた羽目板のこと。『勧進帳』以降、松羽目を用いた舞台での舞踊劇を「松羽目物」と呼ぶようになる。

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