文楽初春公演『阿古屋』に思うこと。または、文楽の希望

 

いま、この瞬間に、現代の〈文楽〉の全てが集約されていると、そう思った。
2014年、文楽初春公演(1月国立文楽劇場)の第二部、『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』「阿古屋(あこや) 琴責の段(俗に「阿古屋」)」を観ていた時のことである。
今年の初春公演は、一部二部合わせて、どの幕も凄まじいほどの充実ぶりを見せているのだけど、とりわけ最後に上演される「阿古屋」は、ちょっと言葉にならないくらい素晴らしい。

筋(ストーリ)は至極単純である。
平家没落ののち、悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)は源氏への復讐の機を狙って、姿をくらましている。源氏方は景清という危険分子を一刻も早く潰したい。しかし行方は一向に知れぬ。最後の頼みの綱が、景清の愛人である遊女・阿古屋であった。彼女を捕らえ、あの手この手と尋問するが、知らないものは知らぬの一点張りで埒が明かない。そこで名判官と名高い畠山重忠はある手段を思いつく。すなわち、阿古屋に琴、三味線、胡弓の三曲を奏でさせ、調べの音を聴き分けることで、阿古屋の真偽を確かめるというもの。三曲に乱れのないことを感じ取った重忠は、阿古屋に偽りはなしと、釈放する。

あらすじを読んでもわかるように、この段の眼目は、劇中に挿入される三曲にある。「阿古屋」は、全五段のうち三段目の導入部分にあたり、全体から見れば比較的軽い一幕であった。しかしながら、華やかな節付け、音楽の優麗さが音曲の大きな聴かせどころとなり、古くから他の段の上演は途絶え、三段目の「阿古屋」のみが大曲として扱われるようになったようである。
今回、その大曲を、人間国宝であり名実ともに文楽三味線奏者の最高峰である鶴澤寛治師が勤められる。八十も半ばを過ぎた寛治師の齢を考えると、今月の「阿古屋」が師にとって一世一代になるやも知れず(いや、そうならぬことを切に願うが)、いずれにせよ、これまで歩んでこられた芸道の集大成の一つになることには変わりはなく、自然と、聴く側も「一音たりとも聞き逃さぬ」という緊迫した心持ちになる。
幕が開いたー。出演者を紹介する口上が済み、熱気を帯びた拍手が静まる。静寂の中、寛治師がひとつ、撥(ばち)を下ろす。肚(はら)に染み渡るような「デン」という音が響く。
ああ、この音だ。
師の三味線を、折に触れ何度も聴いてきた文楽ファンの大半は、そう思ったに違いない。私もそのひとりだ。師の三味線の冴えた音。音は空気の振動によって聞こえるのだそうだけど、そんな物理の原理を無視したかのような、体内にじかに響くクリアさ。突き刺さるような鋭さ。それだけでも大変なことなのに、寛治師の音には、もう一つ別な特徴がある、ように私は思う。それは〈豊穣なノイズ〉。一音のうちに、いくつもの小さい別な音が同時に鳴っているように聴こえるのだ。私などは、〈きれいな音〉と聞けば、ピアノのように濁りなく澄んだ音をつい連想しがちである。やや余談めくが、私が初めて師の三味線を生で拝聴したのは16歳の時だが、国宝の音はさぞ美しかろうと想像していたものとは違い、正直、戸惑ったことを思い出す。ところが、寛治師の音は、冴えた音と同時に、複雑なノイズが聴こえる。一音の中に、対極にあるはずの清濁が一体となり、それでいて全体としてはなんとも云えず、一層魅力的に聴こえる。その上、このノイズが、物語と不思議に共鳴し、登場人物の心理の機微や、雨、風、山川草木、ありとあらゆる〈ものごと〉を描写しているようにも感じられるのである。義太夫三味線の二大要素〈音楽性〉と〈物語性〉を同時に奏でるという、神業。
幕開きのひと撥には、そんな寛治師の至芸が詰まっているようで、なんとも懐かしく、思わず「ああ、この音だ」とひそかに呟いた。ひと撥目にしてこの感動なのだから、終幕までの65分間が、文楽好きにとっていかに至福の時であったかは言うまでもない。

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