【娘道成寺】「道成寺」聖なる伝説、俗なる伝説をめぐって

関亜弓

 「かみながひめ」という童話をご存知だろうか。あらすじは次の通りだ。紀伊国の日高の里(今の和歌山県日高郡)に住む夫婦に、女の子が生まれた。美しく健やかに成長したのだが、どうしたことか髪の毛が一向に生えてこない。おなじ頃このあたりでは不漁の日が続き、それは海の中にある不審な<ひかりもの>のせいではないかと村人は噂するが、怖がって誰も原因を突き止めようとはしない。そこであの髪のない子どもの母が「自分の行いが悪かったため娘に髪が生えないのかもしれない」と、贖罪のために海に潜ることを決意する。ひかりものを持ち帰ったことで、やがて村は平和を取り戻すが、勇敢な母は死んでしまう。ひかりものの正体は観音様で、その威徳により娘に美しい黒髪が生えてくる、という物語だ。この何とも美しい親子愛の物話は、あの「安珍清姫」の説話よりも昔から伝わる<道成寺伝説>なのだが、実に知名度が低い。ちなみにこの話には続きがあり、娘は長く美しい髪を持つので「髪長姫」と呼ばれるようになり、やがて都に召し出される。妃になった姫は生まれ故郷に、母と観音様をお祀りするお寺の建立を懇願するのだった。この願いによって建てられたのが道成寺であり、この「かみながひめ」の説話は、つまりは道成寺創建の話なのである。さらに髪長姫が産んだ男の子は、後の聖武天皇だという、かなり壮大なシンデレラストーリーだ。

「かみながひめ」 文/有吉 佐和子 絵/秋野 不矩(ポプラ社)

 この絵本の作者は、和歌山県出身の小説家・有吉佐和子氏であり、彼女はあとがきにこう記している。「和歌山県日高郡にある道成寺は、謡曲や日本舞踊でおなじみの名刹ですが、能も踊りも安珍清姫の伝説によっているのを、わたしはつねづね残念に思っていました。(中略)わたしは清姫の火の恋よりも、この縁起にみられる母の祈りや、いかにも南紀らしいおおどかな風土を感じさせる髪長姫の物語のほうが、はるかに美しくおもわれますし、好きなのです。」私もこの絵本を読んだあと、親子の情愛がしみじみ伝わりほっこりとした気持ちになったので、有吉氏の意見に深く頷いてしまった。と同時に、いわばこの説話は「聖なる伝説」であり、それに比べ「安珍清姫」の説話は、女が若い僧に恋をして言い寄るが裏切られたと知り、大蛇に変じ道成寺の鐘に隠れた男を追い、焼き殺すという、いわば「俗なる伝説」ではないか。にもかかわらず、現代では「道成寺=安珍清姫」と定着しているのは何ゆえだろうと思った。安易な想像では、人間というものはハッピーエンドよりも、バッドエンド、波乱万丈で少しドロドロしている話の方に興味を持つものだ、という予想も立てられるが、果たしてそれだけなのだろうか。

道成寺繪巻[2](国立国会図書館デジタルコレクションより)

 まず双方の歴史を紐解いてみると、「安珍清姫」の説話(以下、「安珍清姫伝説」)が初めて登場するのは長久年間(1040-44年)の『大日本法華経験記』であり、その後に『今昔物語集』ほかに書きつがれていき、室町時代中期(1400年代)につくられた『道成寺縁起絵巻』でまとまったといわれている。この絵巻などは、「縁起」と言いながら寺の創建の話はほとんど語られない。一方、この「かみながひめ」の物語(以下、「髪長姫伝説」)が正式な史料で残されているのは、紀州徳川家から道成寺に文政四(1822)年に下された『道成寺宮古姫伝記』という絵巻物で、次に登場するのは昭和四年に道成寺から発行された『道成寺絵とき本』と、だいぶ最近になってしまう。

 次の仮説を裏付けるために、「髪長姫伝説」についてもう少し詳しく説明をしておくと、髪長姫のモデルとされているのは史実でいう「藤原宮子」である。藤原不比等の娘で、文武天皇夫人であり、聖武帝の母だ。この宮子が「髪長姫伝説」にあるよう、実際に海人の娘かについては議論の余地がありそうだが、哲学者の梅原猛氏は、ほぼ間違いないと結論づけている。[註1] それが事実であるならば「天皇の夫人が海人の娘」という事実はタブーで、公式な書物に残すことが憚られたため、この伝説が広まらなかったという仮説が立てられる。口伝のような形で、道成寺周辺で密かに語り継がれるものの、そのうちセンセーショナルな「安珍清姫伝説」が登場し、「道成寺伝説」そのものがアップロードされてしまったとも考えられそうだ。文武天皇の妃となり、聖武天皇の母となるような女性が「元は海人の家系」だとは、事実だとしても書けないという理由は至極もっともである。しかし、正史として書けないのであれば、フィクションとうたった芸能作品として上演することはできたのでは…と思うのは私だけだろうか。つまり登場人物の名前を巧みに変えてファンタジー作品として世に送り出すことはできたのでは、と。しかしこの「髪長姫伝説」が取り入れられた芸能を調べてみても、謡曲「鐘巻」(しかも安珍・清姫の話が主題であり、宮古姫の伝承は間に挿入される程度である)や、昭和十年に初演された長唄舞踊『道成寺黒髪供養』くらいしか見当たらないのはどうしたことだろう。

 このことについて導き出した答えは「それほど<安珍清姫伝説>が物語として強烈であったとともに、芸術家の心をかきたてる何かがあったから」である。

冒頭の安易な想像にも通ずるが、道成寺を<つくる>美談より、鐘を焼く、つまり<燃やす/こわす>ほどの欲望・煩悩・執着を扱う作品のほうが、単純に観客をわかすことができたのかもしれない。そうして伝説が作品として上演され話題になり全国に波及していき、また新しい「道成寺」が生まれるという循環が生まれたのではないだろうか。事実、先の『鐘巻』はもともと東方地方を中心にした山伏神楽の曲であり、これが黒川能の『鐘巻』や能の『道成寺』に影響を与えることになる。そして宝暦3年(1753)に『京鹿子娘道成寺』が初演されるが、この頃は長唄が発達し、舞踊というものが能の構成を取りながらも、女形の芸をみせることが最大の眼目となり、これまでのレビュー式のショーから変遷を遂げているその時であった。女形の芸を絵巻物のように構成していく『京鹿子娘道成寺』が受け入れられたことは予想に難くない。そしてその後に続くように『紀州道成寺』『奴道成寺』『男女道成寺』と、趣向を変えた「道成寺もの」と呼ばれる作品群が次々に世に送り出された。このように、世相、舞台芸術の転換期、様々な事象があいまって、「道成寺といえば安珍清姫伝説」という図式は揺るぎないものになったのではないか。

寛延寶暦番附『京鹿子娘道成寺』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 「安珍清姫伝説」は能、浄瑠璃、歌舞伎舞踊と、あらゆるジャンルの芸術家にインスピレーションを与え、その都度大きな「道成寺」を生んできた。時代とともに更新されてきた伝説と同じように、今を生きる芸術家たちから生まれ続ける「道成寺」から、これからも目が離せない。

[註1]『尊卑分脈』『続日本紀』に宮子は藤原不比等の娘であるという記述がある。梅原氏は、上記に残る史実と伝承、美術史的研究を参考に、宮子が紀州・日高郡の海人の娘であり、藤原不比等が宮子を自分と賀茂比売の間の養女としたと記している。

参考文献

  • 1995.梅原猛「海人と天皇(上-日本とは何か-)」
  • 2001.藤田洋「日本舞踊ハンドブック改訂版」
  • 2002.西形節子「日本舞踊の心(2巻)」
  • 道成寺護持会発行「道成寺絵とき本」

関亜弓/木ノ下歌舞伎企画員

ライターとして各媒体で執筆する他、“0歳からはじめる歌舞伎”と冠した子ども向けイベント「かぶこっこ」を各地で開催、カルチャースクール講師や歌舞伎俳優のインタビューや聞き手なども務める。oz mall「恋する歌舞伎」淡交社「なごみ」で連載中。