【娘道成寺】〈変身〉と不安の物語――木ノ下歌舞伎『娘道成寺』によせて

稲垣 貴俊

 「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた」。かの有名な文学作品、フランツ・カフカ著『変身』の第一文です(中井正文訳/角川文庫)。木ノ下歌舞伎『娘道成寺』によせて、〈変身〉にまつわる文章を書くにあたり、まずはカフカ『変身』から始めようと決めていました。なにしろタイトルがタイトルですから、避けて通るわけにはいきません。

これまで〈変身〉なるものは、古今東西、文学や映画、演劇など、あらゆる物語で描かれてきました。透明人間、月光仮面、スーパー戦隊シリーズ、アベンジャーズ……挙げ始めればキリがありませんが、〈変身〉の物語には、どうやらざっくりと2つのパターンがあるようです。

ひとつは「自分から変身する」パターン。いわゆる「スーパーヒーロー」の多くはこれに分類されるでしょう。ある日突然なにかの能力を授かり、ヒーローとしての意志や使命に目覚め、自ら〈変身〉する理由を獲得するという物語は国内・国外を問わず王道です。もうひとつが、自分は望まぬまま変身するパターン。これはさらに「自分の変身を制御できなくなる」ものと「何者かに変身させられる」ものに分けられますが、ここでは前者を見ていくことにします(後者については後述します)。カフカ『変身』も、『娘道成寺』の基になった「道成寺伝説」も、ともに「望まぬ変身を制御できない」というケースです。

道成寺伝説について、ざっと振り返っておきましょう。奥州(現在の東北地方)から紀伊国(現在の和歌山県)・熊野三山を参詣しにやってきた僧・安珍は、道中、とある家を一夜の宿とします。その家の娘・清姫は美形の安珍に惚れ込みますが、熊野詣の途中だった安珍は清姫の求愛を断り、帰り道に必ず立ち寄ると約束するのでした。しかし、安珍が清姫を再び訪ねることはなかったのです。激昂した清姫は安珍を追いかけ、道成寺へ続く道で安珍に追いつきます。その姿は、怒りのあまり蛇に変わっていました。道成寺に逃げ込んだ安珍は釣鐘の中に隠れますが、清姫は鐘に巻き付くと、口から吐いた炎で安珍を焼き殺してしまいます。

月岡芳年『新形三十六怪撰』「清姫日高川に蛇躰と成る図」(Public Domain)

 自ら変身するケースと、望まぬまま変身するケースでは、言わずもがな、その積極性が違います。たとえばアメリカン・コミックの人気ヒーロー、スパイダーマンの場合、主人公の高校生ピーター・パーカーは、蜘蛛の糸を自在に操る能力を手にし、育ての親である叔父を悪漢に殺されたことからヒーローとして目覚めます。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」とは名ゼリフですが、もはやピーターは、ヒーローの正体がただの高校生であることを悟られるわけにはいかないのです。その後、彼は想いを寄せるヒロインに真実を明かすかどうかで葛藤したりもしますが、それはピーターが自ら選び取ったこと。一方で清姫の場合、そのような選択の余地は与えられなかったのです。

 清姫の〈変身〉を思わせる、もうひとつの作品を挙げてみたいと思います。映画『クラウン』(2014/監督:ジョン・ワッツ)は、家族を愛する父親ケントが、呪われたピエロの衣裳を着てしまったばかりに、子どもを食らう悪魔に乗り移られていく物語です。この父親は、やはり自分の意志にかかわらず〈変身〉していくのですが、清姫と違って、彼の〈変身〉はゆっくり進みます。その過程で、家族への愛情や、変貌する自分への恐怖、そして家族を食べてしまうことへの不安が、父親の身体と精神にみなぎっていくのです。

さて、なぜ清姫は、あるいは『クラウン』の父親は〈変身〉してしまったのでしょうか。自分を裏切った安珍をどうしても許せなかったから? それとも、呪いの衣裳を着てしまったから? そうではなかったのではないか、と思います。もしかすると彼らは、ただ不安だっただけなのではないかと。

安珍に恋した清姫は、きっと彼が再び現れるのを待ち焦がれていたでしょう。しかし、待てど暮らせど安珍は現れません。いつになったら来てくれるのか。本当に来てくれるのか。またケントの場合も、ピエロの服を着たのは家族のため。それが、なぜ自分の身体に異変が起きることになったのか。自分は愛する我が子を守れるのか、それとも正気を失って最後には食べてしまうのか。きっと、2人とも不安だったはずです。そういえばグレゴール・ザムザの場合も、〈変身〉の前夜には「不安な夢」を見ていました。

 もしかすると〈変身〉の物語は、人間の不安に直接紐づいているのかもしれません。

自ら〈変身〉を選ぶ人々は、元の自分のままではいられないことへの不安を自力で乗り越えることになりますし、そもそも彼らがわざわざ〈変身〉すると決意するのは、自分や他者の抱える不安を取り払うため。その一方、望まぬ〈変身〉を制御できなくなる人々は、自分の不安が限界に達した時に〈変身〉を完了する傾向にあります。それもそのはず、彼らが〈変身〉してしまった後、そこには不安を感じる自分自身さえ存在しないのですから。

ちなみに、第三者に〈変身〉させられる人々の場合も、彼らの無意識的な不安が〈変身〉で表出することは少なくありません。『美女と野獣』では、見た目が麗しく、社会的にも高い地位にある王子が失墜を味わいますが、野獣となった王子は、現実化した不安に直面する中で、怒り、悲しみ、嘆くのです。

けれども、古今東西あらゆる物語で〈変身〉が描かれてきたのは、人間が〈変身〉に強い憧れを抱いてきたからでしょう。ヒーローになりたい、愛する人のところに飛んでいきたい、自分の欲望を思うままに発散したい、今ある地位や財産を捨ててでも生まれ変わりたい。「あんなふうになってしまったらどうしよう」という恐怖も、そんな〈変身〉を覗き見たいという欲望の裏返しにほかなりません。

そして、そんな私たちの変身願望を、「できることならば」「実際にはできないけれど」という現実の足枷から解き放ち、代わりに叶えてくれるのが〈変身〉の物語です。そもそも、“あんなふうになれたらいいのに”という願望は、“今のままではいけない”という不安に支えられているわけですから、〈変身〉に不安がつきものなのは当然でしょう。

 そんな風に考えてみると、たとえばハリウッドのヒーロー映画のように、〈変身〉の物語が増え続けている現状は、私たちの不安が膨らみ続けていることの裏返しだとも思えてきます。「自分の生活は今後も安泰だろうか」「仕事を誰かに奪われるのではないか」「このまま一人ぼっちなんて嫌だ」。ただし実際には、不安が限界に達しても、私たちの姿が蛇や毒虫に変わることはありません。ただ、現実の足枷が突然外れるだけです。

「不安な夢」から覚めた朝、人々に〈変身〉が起こることは確かにあります。そして、そんな時には、想像を絶するほど恐ろしい、悲しい出来事がしばしば起こるもの。〈変身〉の物語は、そんな〈変身〉をできるだけ先送りするための薬でもあるはずです。


稲垣 貴俊

木ノ下歌舞伎 企画員/執筆業。主に海外ポップカルチャー(映画・ドラマ・コミックなど)を専門に執筆・取材活動を展開。『ジョーカー』『シャザム!』『ポラロイド』劇場用プログラムへの寄稿、ラジオ番組出演など。