河竹黙阿弥×木ノ下裕一(架空)対談

木ノ下裕一

ステイホーム中に黙阿弥先生に聞いてみた『三人吉三』の世界
(もちろん、冥界リモートで)

木ノ下 もしもし、聞こえますか?

黙阿弥 ああ、聞こえてるよ。

木ノ下 先生にご報告がありまして……

黙阿弥 芝居(しべえ)、できねェんだって?

木ノ下 はい……中止になりました。力及ばずですみません……。

黙阿弥 俺に詫びたってしかたないよ。誰のせいでもねぇンだし。

木ノ下 稽古に入る直前(四月頭)から「上演は厳しいかもな……」と覚悟はしていたんですけど。

黙阿弥 ああ。

木ノ下 いざ、幕を開けられないとなると、やっぱり骨身に堪えました。

黙阿弥 そうだろうよ、わかるよ。ご見物にも申し訳ねェしなァ。

木ノ下 チケットを買ってくださっていたお客様も大勢いましたしね。

黙阿弥 俺が『三人吉三』を書いた頃も、世間が何かとガタガタしてて、思うように芝居を開けられないこともあったよ。

木ノ下 安政の地震に、コレラの大流行……ですもんね。

黙阿弥 まあ、それもそうだが、俺らの頃は、お上からのお触れが大きかったな。

木ノ下 弾圧ですか。

黙阿弥 高島屋(四代目市川小團次・和尚吉三役の初演者で、黙阿弥の盟友)もお上に殺されたようなもんだし。

木ノ下 だそうですね。しかし、当時の先生の状況、史料などで一通りわかったつもりになってたんですが、こうして、実際、芝居をやるのもままならない身になってみると、何もわかっていなかったんだなァと正直思いますよ。

黙阿弥 でも悪いことばかりぢゃねェんだ。いや、そう思わねェとやってらんねェわさ。第一、少しはモノを考えるようになるだろ?

木ノ下 そうですかね。でも、先生が『三人吉三』にかけた想いの強さとか、情熱とか、「今、これを書き切るんだ!」という決意とか、少しはわかったような、そんな気がしてます。

黙阿弥 そんな目を剥いて言わなくてもいいよ、野暮だよ。

木ノ下 改めてこの作品の偉大さがわかったように思うんです。

黙阿弥 ほめ殺しはヤだよ。

木ノ下 いいじゃないですか、先生はもう死んでるんだし。

黙阿弥 ちげェねェ(笑)。

木ノ下 とにかくスケールが大きいですよね!

黙阿弥 お前(めえ)さん、14年の初演の時、「黙阿弥の作品は百両がどうのこうのとチマチマしててイヤだ」って言ってたぢゃねェかよ。

木ノ下 (慌てて)いや、それは若気の至りで……。今回、台本を再補綴したのですが、「百両」というアイテムが巡り巡ってドラマが生まれていくところに改めて感動したんです。

黙阿弥 とんだ宗旨替えだね(笑)。

木ノ下 大金のために人が悲劇的な末路を辿る芝居はよくありますが、

黙阿弥 「梅川忠兵衛」とか「忠臣蔵」の六段目とか。

木ノ下 でも、『三人吉三』ほど目まぐるしく金が巡りませんよね。また、宝物が巡り巡って人々が右往左往する芝居もよくある。

黙阿弥 それは芝居にかぎらず戯作のおさだまりだ。宝剣とか香炉とか鯉魚の一軸とか。

木ノ下 でも先生は、あえて宝物じゃなくて百両にした。芝居の序盤で、庚申丸という宝刀が百両にすり替わるんですね。

黙阿弥 庚申丸は大川端の場でお嬢吉三の手に渡ってから、ほとんど動かないからね。かわりに刀代の百両が動き出す。

木ノ下 そこがスゴイんです。「庚申丸」は人によって価値が違うでしょう。ある人にとっては百両以上の価値があるけど、ある人にとっては

黙阿弥 三文の値打もない(笑)。現に、はじめ刀を見つけだした川ざらいの人足(にんそく)にとってはただのガラクタだ。

木ノ下 ところが、「百両」の場合は、単なる貨幣ですから誰にとっても価値が同じなんです。みんなにとって“欲しいもの”なんですね。

黙阿弥 そこが金の怖いところさ。

木ノ下 そう、怖いんです。百両を前にすると一人残らず、“欲”があぶり出される。思わず悪事に手を染めたりしてしまうし、人まで殺しちゃう。

黙阿弥 百両を欲しい気持ちは同じでも、使い道は人それぞれだしな。

木ノ下 文里は「お坊のために庚申丸を買い戻してやりたい」、十三郎は「文里に返したい」、伝吉とおとせは「十三郎に渡したい」、和尚吉三は「伝吉にあげたい」……みんなそれぞれ思惑があります。

黙阿弥 でもとどのつまりは、「お坊のために」というところに行きつく。

木ノ下 そう、百両で争っているけど、結局、全員目的は同じなんです。しかし、そのことを登場人物たちは知らない。

黙阿弥 知っているのはご見物だけサ。

木ノ下 そこが巧い。金が人に悪心を起こさせる。その悪心は元はといえば「誰かのために」という善意からでしょ。

黙阿弥 善と悪は、表裏だからね。

木ノ下 アイテムが「金」だからこそ可能なドラマの仕掛け。発明ですよね。先生、お金によほど苦労したことがあったのですか?

黙阿弥 若い頃は人並みにね。それはさておき、やっぱり、当時、「金」には格別の……

木ノ下 あ、リアリティがあったんだ!

黙阿弥 あの景気の悪さ。被災して喘ぐ人がいる。それを助けたい人がいる。貧の盗みをする奴がいる。まさかとおもうような大店(おおだな)があっけなく潰れたりする。

木ノ下 文里の境遇にしても単に芝居の絵空事では済まされなかったってことですか?『武江年表(ぶこうねんぴょう)』(当時の出来事を詳細に綴った年表形式の史料)にもそのあたり世相が、詳しく出てますもんね。世相と云えば、三人の吉三郎をはじめ若者の生い立ちも境遇もバラエティーに富んでますよね、貧苦、浪人、迷子に捨て子……これもやっぱり、世相の反映ですか。

黙阿弥 まあ、大地震から五年、それにコロリ(コレラ)の煽りを受けて、そう珍しいことぢゃなかったかな。しかし、そう並べ立てられると、我ながら「苦の見本帳」のようだね。

木ノ下 はい、暗い作品です……。はっきりいって「ろくでもない世界」です。だからこそ屈指の名ぜりふと名高いお嬢吉三の「月も朧に白魚の~」が感動的なんです。

黙阿弥 へ?そうかい?

木ノ下 ろくでもない世界の、ろくでもない境遇の若者が、朧月と篝火と霞の春の隅田川を愛でる。「それでも、世界は、美しい」と言うんですから。

黙阿弥 そいつァ、チト深読みが過ぎるがね。それに、あすこを名ぜりふと言われるのは、今でも面はゆい。正月と節分の縁語を集めるのには、ちょいと頭をひねったが、あんなものは、作者の心得さえあれば、わりと楽に書けちまうんだ。

木ノ下 ただ、あそこでお嬢が気分がいいのは、何も景色の美しさに感動したからだけじゃない、思わず百両を手に入れたことも大きい。

黙阿弥 “純”と“欲”の綯い交ぜかい。

木ノ下 経済的な余裕と心の余裕は表裏。どちらか一方だけでは生きていけない、という真を突いたところかと。

黙阿弥 すぐにくだらない読みをしたがるのは、お前さんの悪い癖のようだ。

木ノ下 ところで、作中の人物たちは、三組のグループに分けられますよね。まず三人の吉三たち。伝吉・おとせ十三の親子三人。それに文里、一重、おしづの三角関係。三人チームが三つ。

黙阿弥 まず二つの大きな「世界」がある。吉三郎たち世界と、文里たちの廓話の世界。

木ノ下 この二つは、ほとんど交わらない。水と油です。でも、百両が見えない糸のように二つの世界を縫い合わせていますね。だからこそ、老若男女、貴賎も貧富も関係なく多様な人を登場させることが出来ます。文里のような豪商から八百屋久兵衛のような小商人まで、一重のような高級娼婦からおとせのような最下層の街娼まで、実に幅広い。それぞれ面識はないけど、見えないところで確かに影響し合っている。

黙阿弥 だって、そもそも「世間」ってそういうもんだろ。

木ノ下 「因果」という目に見えない繋がりが百両というアイテムのお陰で可視化されてます。

黙阿弥 たしかに、それを描(か)きたかったということは、あるかもしれねェ。

木ノ下 「“世間”というもの全体を描き切ってやるぞ!」というスケールの大きさにぐっときます。しかも、その「世間」が「地獄信仰」と重なり合うところがまたいい。吉三郎チームの三人は未遂なものも含めてみな人を殺(あや)めますから「修羅道の地獄」、伝吉親子は近親相姦で「畜生道の地獄」、文里たちは没落して食うものも食えない「餓鬼道の地獄」、と生きながらそれぞれ「三大地獄」を体験してます。

黙阿弥 いつの世もサ、死ぬのも辛ェけれど、やっぱり生きるほうが辛いからな。

木ノ下 しかも、肝心の、本物の「地獄」は

黙阿弥 ああ、「地獄斎日の場」ね。

木ノ下 閻魔も鬼もあんなに能天気で、どんちゃん騒ぎしてて、楽しそうで。そのギャップたるや!

黙阿弥 あそこは、筋を練っていても楽しかったよ。作者の箸休め、だな。いや、でも、ふざけてるようだけど、割と真剣に考えたところもあるんだ。そういうことはホントは言わぬが花だけど、当時のご見物には近しい人を失くした人間も少なかねェ。俺も、燃えて灰になった江戸をこの目で見たし、流行病で死んだ親の死骸にすがる子供も見た。「なるほど地獄ってのは、こんな処かね」と思ったことも二度三度ぢゃなかった。俺は作者だから、やっぱり筆を持つことしかできねェ。嘘みたいな世の中に、嘘の力で抗うしか能はない。そういうことサ。

木ノ下 「救い」ってことですか?

黙阿弥 そう言われちゃ、なんだか、薄っぺらで面白くねェけど、まあ、そんなところかね。照れもあるンだろうけど、そういう作者の真実に、莫迦莫迦しさをふんだんにまぶして、仕立てたような気もするよ。それが作者の本分だしな。

木ノ下 思えば、災害も疫病も、理由なく起こるでしょ。そこに意味を見出そうとするのは人間の性(さが)だけど、ほんとのところは、意味なんてわからない。巡り合わせが悪かったとしかいいようがないです。理解不能なこととか、不条理なことが起きると、人って混乱しますよね。今まで、信じていたシステムがあっけなく使い物にならなくなるわけですから。急に、「掴みどころのない世界」に放り出されたようで不安になる。先生の『三人吉三』って、そんな掴みどころのない世の中を、「因果」という糸で、もう一度“掴める”ようにしてやろうという作意があったように思うんです。ぼやけてしまった“世界の輪郭”をもう一度、隈(くま)どってみせる、みたいな。「世間ってのはこうして影響し合っているんだ」とか「過去の罪業はいつか報うんだ」とか「死ねば“楽しい地獄”が待っているよ」とか。

黙阿弥 さあなァ。もう160年も前のことだから忘れちまった。そんなご大層なもんだったかな。しかも市村座の初演は不入りで、評判もあまり立たなかったしな。ただ、あの時は、お上や役者や座元にも気を遣いながら無我夢中で書いていたような気もするし。

木ノ下 でも「会心の作」なんですよね。

黙阿弥 「不憫な子ほど可愛い」かな。不憫といえば、お前さんも、芝居が出来なくて、さぞ気落ちしているだろうけど、俺に言わせれば、「まだ了見が若い、若い」。この世界は、しょせん元には戻らないよ。俺もずいぶんいろんな目に遭ったし、ことに御一新のあとは、時世について行くのに心底くたびれたこともあった。だいたい、小屋(劇場)だって様変わりしちまったわけだし。“そうしゃるでぃす箪笥”?か“長持”かしらねェけど、そんなのまだ甘いもんだよ。だからさ、またおやりよ、あんたの『三人吉三』をさ。

木ノ下 はい。何年後になるかわかりませんけど、リベンジしたいと思ってます。

黙阿弥 俺も地獄で楽しみしているよ。

木ノ下 先生、地獄にいるんですか!?

黙阿弥 そりゃそうさね。あれだけ嘘ばかり書き散らしていたんだもの。隣には紫式部殿もいるよ(笑)。今度、合作するんだ。

木ノ下 楽しそうですね……。

黙阿弥 お前さんも、死ねば地獄に来られるように、せいぜい娑婆で嘘に励むこった。

木ノ下 補綴……頑張ります!

黙阿弥 伝吉の台詞ぢゃないけど、金も時節も「世界の湧き物、明日にでもできめへものでもねへ」よ。幸か不幸か、仕込みの時間が出来たんだ、そん時はうんといい出来栄えでなきゃ承知しないよ。

木ノ下 はい、和尚吉三の台詞じゃないですけど「三年たちやァ三つになりやす」!精進しますよ。


木ノ下裕一

木ノ下歌舞伎主宰。1985年和歌山市生まれ。2006年、京都造形芸術大学在学中に古典演目上演の補綴・監修を自らが行う木ノ下歌舞伎を旗揚げ。歴史的な文脈を踏まえつつ、現代における歌舞伎演目上演の可能性を発信している。外部での古典芸能に関する執筆、講座など多岐にわたって活動中。現在、NHKラジオ第二で「おしゃべりな古典教室」放送中。