歴史の再現、他者への想像―『渡海屋・大物浦』と『アクト・オブ・キリング』―

 同じ過ちを絶対に繰り返すまいと強く念じたにもかかわらず、まんまと同じ過ちを繰り返してしまうことがある。次の日は早起きだと分かっているのに夜ふかしをする、仕事が立て込んでいる時にかぎって掃除を始める、ついつい今夜もデザートを買って帰ってしまう。しかしその時に起きているのは、本当にいつも“同じこと”だろうか?

 大作「義経千本桜」の二段目「渡海屋・大物浦の段」は、源平合戦で源氏に敗れ、あえなく入水した平家総大将・平知盛らの〈復讐劇〉だ。史実では壇ノ浦の戦いで命を落とした知盛や安徳天皇らが、もし生き延びていたとしたら……。知盛と安徳帝、乳母の典侍局は、大物(現在の兵庫県尼崎市)の地で銀平とおりう、娘のお安を名乗り、渡海業を営んでいる。その真の狙いは、平家を滅ぼした源義経を追い詰めることだった。

 ある日、兄・頼朝から謀反の疑いを受けて追われる身となった義経一行が、九州へと逃れるべく知盛らの渡海屋を頼ってきた。知盛らは嵐の海上へ一行を送り出し、知盛自身は自らの幽霊に姿を変えて義経を襲撃する。それは、かつて自らが敗れた合戦を再現することだった。戦場に散った仲間、もはやこれまでと命を絶った女性たち、守らねばならなかったはずの天皇とともに、知盛は歴史のやり直しを試みるのである。

 木ノ下歌舞伎『義経千本桜―渡海屋・大物浦―』が前回上演された2016年にも書いたように、「渡海屋・大物浦の場」は〈歴史if〉の性質を帯びた物語であり、歴史の再現によって復讐を果たさんとする知盛の執念が描かれている。ただし史実と同じく、この戦いも義経のほうが上手だ。銀平らの芝居もむなしく、その正体が知盛一行であることをあらかじめ悟っていた義経は、海上にて一行を返り討ちにする。義経によって安徳の命は救われたが、知盛は再び海中に身を投じるのだ。

 では、知盛による歴史の再現はいったい何を生んだのか。そもそも歴史を再現することで、当事者には何が起こるのか。

 1965年、インドネシアで共産党関係者や華僑の人々が虐殺された。きっかけは、当時の大統領であるスカルノがクーデターによって失脚したこと。虐殺に直接加担したのは、「プレマン(自由人)」と呼ばれる民兵ややくざ、いわば民間人だった。彼らは殺害、拷問、脅迫、強姦、家々の破壊や略奪などを繰り返し、被害者は100万人をゆうに超えるといわれる。

 この惨劇の当事者たちに虐殺の模様を再現させた映画がある。ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』(2002/監督:ジョシュア・オッペンハイマー)の主人公、アルワン・コンゴは当時1,000人以上を殺害した男で、カメラを前に自らの“英雄的行為”を喜々として語るのだ。自分たちの歴史を未来に残そうと、アルワンと仲間たちは、暴力と破壊の数々を再現した映画を撮影していく。さながら映画スターのように振る舞うアルワンは、笑顔を浮かべながら、残虐な犯行の様子を語り、実際に演じてみせるのだ。ところが、アルワンの様子に少しずつ変化が生じ始めた。殺人や拷問を再現し、被害者に近しい人々から話を聞くうちに、長年にわたる自己正当化の陰に隠れていた感情が首をもたげてきたのだ。そして、ついに被害者を自ら演じた時、アルワンの罪悪感と恐怖、後悔は表面化することになる。

 『アクト・オブ・キリング』は作品の題材やテーマ、政治性、倫理性など注目すべき点の多い作品だが、本稿の趣旨に引きつけて言えることがあるとすれば、それは「歴史の再現が他者への想像に繋がっている」ということだ。アルワンは数え切れないほどの命を奪ったのち、実に40年以上もの月日を経て「拷問した相手の気持ちがわかる。俺は報いを受けるのだろうか」と語った。映画の最後には、アルワンの身体にとある反応が起こるのだ。

 もちろんフィクションとノンフィクションを同じ土俵で語ることはできないけれど、それならば歴史を再現し、再び戦場に向かった「渡海屋・大物浦」の平知盛にはどんな変化があったのだろう。たとえば知盛は、歴史を再現する過程で、宿敵である義経について想像をめぐらせることができたのか。もっともこの観点で言えば、知盛自身は復讐心を強くみなぎらせる存在であり、義経への共感などはあまり見受けられないように思われる。

 しかしながら、その逆はありうる。知盛だけでなく、英雄として源平合戦を戦った〈勝者〉たる義経もまた、〈敗者〉である知盛らとの戦闘をやり直すことで歴史を再現しているからだ。しかも彼らの場合、源平合戦ののちに逆賊として扱われており、戦いの最後には知盛の言葉を直接聞くことにもなる。すなわち『アクト・オブ・キリング』のアルワンに近いのは、知盛よりもむしろ義経であろう。戦いが知盛の入水によって終結することは変わらないものの、義経は歴史の再現を経て、平氏という他者に想像をめぐらせ、次の場所へ進むことになる。おそらく復讐に燃えた知盛のほうも、同じ敗北を繰り返したようでいて、その心境には少なからぬ変化があったはずだ。

撮影:石倉来輝 稽古場にて 知盛(佐藤誠)と義経(大石将弘)

 そもそも「義経千本桜」という演目自体、狂言回しである源義経を中心に、死んだはずの平知盛・平維盛・平教経が史実で出会わなかった他者と出会う物語だと見ることができる。「渡海屋・大物浦」は歴史の再現という仕掛けが印象的だが、この演目自体、他者の存在を重要視していると考えるのは強引だろうか。

 とにかく現代は、他者に接近することが難しい時代となった。コロナ禍のために人と会えないという問題が浮上するよりも前から、SNSでは思想や価値観の違いが表面化しやすくなり、ささいなズレさえも大きなズレとして認識され、コミュニケーションの機会は増えているはずが、むしろ対立と分断の溝は深まりつづけている。とりわけハッシュタグとトレンドのアルゴリズムを前にした時、人々が互いの背景や思想・信条・心情を想像する可能性、そして対話を重ねることの可能性はあまりにも無力だ。そんなことを考えてもみると、たとえ悲しい歴史の再現であれ、そこで他者と出会い直す「渡海屋・大物浦」の物語には希望を感じてならないのである。

この記事を書いた人

ライター/編集者。木ノ下歌舞伎 企画員。映画評論・コラムなどを幅広く執筆するほか、ウェブメディアの編集者としても活動。『NOPE/ノープ』『わたしは最悪。』『マトリックス レザレクションズ』『TENET テネット』ほか劇場用パンフレットの執筆・編集協力や媒体寄稿など多数。外部舞台作品にBunkamuraシアターコクーン『パンドラの鐘』(2022)ほか。