桜姫東文章、あるいは怒りのデス・ロード

 世の中には、血の出る暴力とそうでない暴力がある。ぶん殴られて血が出たとか、いや内出血で済んだとか、そういうことではない。「でも実際、内出血のほうが危ないらしいよ」とかいう話でもない。肉体を傷つける暴力と、魂を傷つける暴力の話である。

 鶴屋南北『桜姫東文章』は、吉田家の息女・桜姫と、17年前に心中に失敗した僧・清玄、悪辣な盗賊・釣鐘権助の三人をめぐる物語だ。

 家宝を失い、父親と弟を亡くし、もはや未来への希望を抱けずにいた桜姫は、出家のために長谷寺の清玄を頼る。しかし清玄はひょんなことから、桜姫が17年前に死んだ恋人・白菊丸の生まれ変わりだと確信した。一方の桜姫は、かつて自分を犯した権助と寺で再会。ひそかに権助の子を産んでいた桜姫は、出家を翻意して権助と交わる。しかしその結果、桜姫はおろか、桜姫と密通したという無実の罪を着せられた清玄も寺を追放されてしまった。

 もともと武士の娘だった桜姫と、高僧だった清玄は、いまや落ちぶれた流浪の身。やがて清玄は執拗に桜姫を追いかけはじめ、さまよえる桜姫は女郎屋に売られ、そして権助も桜姫と思わぬ形で再び出会うことになる……。

 この物語の中で、桜姫は身分や生き方、話し方を変えながら生きていく。家族を襲った悲劇を脇に置けば、自業自得と言えるような部分もあり、周囲に流されるまま生きているようにも見える桜姫だが、吉田家の家宝を奪った=自分の人生を奪った真犯人を知るや、“お家の再興”という使命のもと、想像を絶する冷徹さで全てを終わらせもする。単純な解釈を許してくれない人物像だ。

 もっとも、鶴屋南北による原文をじっくりと読み込んでみると、桜姫の姿からは「こうとしか生きられなかったのではないか」というもの悲しさが浮かびあがる。歌舞伎上演の美しい印象で知られる『桜姫東文章』だが、蓋を開けてみると内容は抑圧と暴力の嵐。絶望的な格差社会のなか、登場人物は性別や年齢、容姿、障がいなどによる激しい差別にさらされてゆく。桜姫の場合、権助に強姦され、清玄のストーキングを受け、周囲には個人の意志を無視され、身体を売らされ、その後はいったん落ちぶれたからと性的にも軽んじられるのだ。一見ふらふらと世間をさまよっている桜姫だが、視点を変えてみると、あまりに過酷な世界を生き延びるため、じつは彼女なりに必死で足掻いているようにも思えてくる。さながらディストピアを生きる戦士、残酷な決断も厭わないダークヒーローのように。

 補綴作業のため『桜姫東文章』を読み終えた時、映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)を真っ先に思い起こした。核戦争後の荒廃した世界を舞台に、水分と食糧を管理する独裁者の砦から、一族の子どもを産むために監禁されていた“妻たち”が脱走し、主人公の男性・マックスとともに理想郷を目指す物語だ。カーチェイスや銃撃戦、大爆発が全編を彩る、過剰なまでにエネルギッシュなアクション映画で、爆走するトラックの正面にくくりつけられたまま、炎を噴射するギターをかき鳴らす男なども出てくる。

UnsplashAzzedine Rouichiが撮影した写真

 もちろん、鶴屋南北の『桜姫東文章』には銃撃戦もなければ大爆発もない。言わずもがな、ギターが炎を噴くこともない。しかし、ふたつの作品/演目には重なる部分を感じずにいられないのである。

 それはたとえば、家父長制による抑圧激しい社会で、女性たちがもがき苦しみながらもパワフルに生き、最後にはひとつの目的が達成されること。『マッドマックス』には砂漠で繰り広げられるド派手なアクションがあり、『桜姫東文章』には斬り合いなどの立ち廻りが盛り込まれている。後者には見得や割台詞、「さあさあさあ」で知られる繰り上げ、本火・本水といった、歌舞伎ならではのけれん味やスペクタクル性もたっぷりだ。乱暴を承知で言えば、どちらの作品も、魂を傷つける暴力と、肉体を傷つける暴力がつねに並行しながら展開してゆく構成なのである。魂への暴力は、人間をとことん追い詰めるものとして。肉体への暴力は、時に痛ましく、しかし時には観客を楽しませる娯楽の一環として。

 こうした一面を象徴するのが、木ノ下歌舞伎版『桜姫東文章』の見どころのひとつである「押上植木屋の場」「郡治兵衛内の場」だ。桜姫・清玄・権助がまったく登場しないこともあり、本筋に関係ない場面だと考えられてきたのか、今回が初演(1817年)以来の復活上演となる。ここでは吉田家ゆかりの侍たちが、追われる身となった桜姫たちを守るべく策を講じるのだが、その過程では、まるで罪のない一般市民の男女ふたりが犠牲として差し出されてしまう。肉体と魂、双方に対する暴力のありようが、同時に、わかりやすく、また一定の娯楽性を失うことなく描かれた場面だ。社会構造と忖度のために最も弱い立場の人間が死ぬという、200年以上前に書かれたとは思えないほど現代的な展開もポイントだろう。

 翻って言えば、かつて『桜姫東文章』に描かれた抑圧と暴力はいまもなお解決しておらず、それは日本にかぎらず世界的に見ても同じということになる。作中に登場する「武士道」という言葉が寒々しく聞こえる瞬間にこそ、この演目の現代的な本質があるのかもしれないと思えるほどに。

この記事を書いた人

ライター/編集者。木ノ下歌舞伎 企画員。映画評論・コラムなどを幅広く執筆するほか、ウェブメディアの編集者としても活動。『NOPE/ノープ』『わたしは最悪。』『マトリックス レザレクションズ』『TENET テネット』ほか劇場用パンフレットの執筆・編集協力や媒体寄稿など多数。外部舞台作品にBunkamuraシアターコクーン『パンドラの鐘』(2022)ほか。