『三人吉三』の時代(1)

日置貴之

柳原土手の口論

いうまでもなく、江戸時代から明治時代のある時期まで、歌舞伎は「現代演劇」であった。そこには、当時の人々であればすぐに気が付くさまざまな「仕掛け」がちりばめられている。

河竹黙阿弥の代表作として今日も上演が繰り返される『三人吉三廓初買』(以下、『三人吉三』。現行歌舞伎では、『三人吉三巴白浪』として一部の筋が演じられるのが常である)の場合も、作品が初演された安政7年(1860)に近い時期の出来事や、社会のありさまが作中に影を落としている。しかし、私たち現代人は、そのことを見落としがちである。

たとえば、『三人吉三』第一番目二幕目の「花水橋材木河岸の場」(以下、『三人吉三』の場名は初演にもっとも近い内容を持つと考えられる、『新潮日本古典集成 三人吉三廓初買』所収の台本による)には、奇妙な山伏と侍が登場する。侍は、山伏が自分に突き当たったことに腹を立て、刀に手を掛けるのだが、山伏が印を結び呪文を唱えると、侍はどうしても刀を抜くことができない。騒ぎを聞きつけて集まった人々は、山伏の法力に感心するのだが、実はこれは騙りで、山伏と侍は「グル」。人々の注意がそちらに集まっている隙に、もう一人の仲間が金品を掏り取るという手口なのだった。既存の注釈書でも指摘されていないが、実はこの場面には、元ネタがある。それが、肥前国平戸藩主であった松浦静山が、政治の話題から市井の出来事まで幅広い逸話を書き記した随筆『甲子夜話』巻十に収められた次の記事である。

近年のことか、柳原の土手にて修験と士と口論し、追々言ひつのり喧嘩に及ぶ。因てあたりの人集まりて堵(かき)の如し。かくする中修験云ふには、「汝武士といへども我加持力あり。これを用ひるときは刃も抜くことあたはず」。士憤りて曰く。「もしそのごとくならば我を祈れ、即座に汝を斬らん」。修験心得たりとて、すなはち印を結び呪文を誦ふ。士怒りて柄に手をかけ、刀を抜かんとするに抜けず。見者伝へ聞きていよいよ囲をなす。土手に軒を比する肆店(してん)の商賈(しょうこ)も皆来たり視る。かくする中、士怒ること甚だしく、力を励まして刀を抜くに、刀鞘を出ること三四寸、これを祈ればまた鞘中に躍り入る。〔中略〕士ついに抜くことあたはず。これを慙(は)ぢて衆人の中に逃げ入りて見えず。見者相顧み大いに笑ひて分散す。商賈各その店に還りて視るに、肆中の買物失せて亡きもの数多なり、然ればさきの口論は盗の奸計にして、肆店の物はその党類計り合せて奪ひたるなり。真に奇策、咲(わら)ふも余りあり。

(中村幸彦・中野三敏校注『甲子夜話1(東洋文庫306)』により、一部の表記を改め、適宜読み仮名を加えた)

柳原土手は現在のJR秋葉原駅〜浅草橋駅間あたりの神田川に沿った土手である。山伏と侍が口論になり、侍が刀を抜こうとするが、山伏の法力によって抜けない。近くの土手に店を出していた人々がこの様子を見物していたが、ことが収まったのちに店に戻ると、商品が盗まれており、おそらく喧嘩は狂言であったというのである。最後のどんでん返しまで含め、「花水橋材木河岸の場」の騙りは、この出来事をほぼそのまま利用したものであった。なお、『三人吉三』は初演では、江戸の地名を使うことを遠慮して、鎌倉の地名に置き換えていたが、「花水橋材木河岸」とは両国橋のたもと、それも現在の両国駅がある隅田川東岸ではなく、西岸、すなわち柳原土手に続く一帯のことを指している。

『甲子夜話』の執筆が開始されたのは文政4年(1821)なので、この出来事もそれに前後する時期のことであろう。文化13年(1816)生まれの黙阿弥は、少年時代に噂に聞いた詐欺事件を記憶していたのだと思われる。一定年齢以上の観客のなかにも、舞台を目にして、この事件を思い出す人がいたのではないか。

木ノ下歌舞伎による上演(2014・15年)で初演以来、百五十余年ぶりに日の目を見た第一番目大詰「地獄正月斎日の場」は、閻魔大王や紫式部、賽の河原の地蔵などが、地獄に乱入した小林朝比奈とともに繰り広げる喜劇である。閻魔・地蔵・朝比奈は、式部をめぐって「地獄拳」なる拳で勝負をすることになるのだが、この突飛な発想にも下敷きがあった。露天の古本屋を営んでいた藤岡屋由蔵が見聞きした、幕末のさまざまな噂・出来事を記した『藤岡屋日記』によれば、弘化4年(1847)3月6日の夜、四ツ谷新宿の太宗寺(新宿区新宿二丁目に現存)に盗賊が入り、閻魔像の目玉を抜き取るということがあったという。この出来事は錦絵の題材になり、閻魔と盗人と坊主の三人が拳を打つ絵も出版された。また、盗賊の「犯行動機」についてもさまざまな憶測が駆け巡った。中には、この盗賊は、子供の疱瘡が治るように閻魔に願を掛けたものの、子供が亡くなったために乱心し、「地蔵はかはいゝが閻魔がにくい」と言って閻魔の目玉を繰り抜いたのだ、とするものもあったようである。地蔵・閻魔・朝比奈の「地獄拳」もまた、13年前の街の噂から生み出されたのである。ちなみに黙阿弥はこの時、32歳。狂言作者として一人前になる時期で、芝居の題材となりそうな世の中の出来事に目を光らせていたことだろう。

『三人吉三』全体に漂う陰鬱な雰囲気と、この「地獄」の場面の妙な明るさとは対照的であるが、狂言の題材を求めて世間の動きに気を配る黙阿弥をして、そのような陰鬱さと奇妙な明るさが同居する芝居を書かせた背景は、どのようなものだったのだろうか。

太宗寺の閻魔像一件については、若狭祥子さん(白百合女子大学大学院博士課程)からご教示いただきました。お礼申し上げます。

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