『三人吉三』の時代(2)

日置貴之

災害と疾病のなかで

『三人吉三』が初演されたのは安政7年(1860)の正月だった。この7年前、嘉永6年(1853)に、浦賀に黒船が来航し、翌年、日米和新条約が結ばれている。この条約では下田と箱館(函館)が開港されることになったが、その後、長崎・横浜などが続くことになる。

社会に大きな動揺をもたらしたのは、黒船の来航とそれに続く開港だけではなかった。日米和親条約の締結から8ヶ月が経った嘉永7年(1854)11月4日と翌5日、マグニチュード8.4程度と推測される地震が相次いで起きている。11月27日、こうした社会情勢をうけて、元号が安政と改められた。これにちなんで、2つの巨大地震は、安政東海地震・安政南海地震と呼ばれている。

安政の元号は、唐代の中国で編まれた『群書治要』の中の、「庶民安政、然後君子安位矣」による。庶民が政治に満足することで、それを治める者の地位も安定することを説いた一節だが、安政の世は庶民にとっても、政治の担い手たちにとっても、およそ満足や安定からは程遠い時代だった。東・南海地震から一年弱の安政2年(1855)10月、今度は直下型の地震が江戸を襲った(安政江戸地震)。翌3年には、7月に陸奥八戸(現・青森県八戸市)で地震とそれに伴う津波が、8月には江戸を台風が襲い多くの死者が出た。5年にはコレラの大流行が生じ、やはり多くの犠牲を出している(『武江年表』は、江戸だけで2万8千人以上が亡くなったと記す)。コレラ流行の兆しが見えつつあった6月、幕府は朝廷の許しを得ないまま、日米修好通商条約を結んだ。以下、オランダ・ロシア・英国・フランスとの間で条約を締結し、条約反対派に対する弾圧(安政の大獄)が開始される。

安政5年のコレラ流行は、9月下旬になると収束へと向かったようだが、その後も数年は小流行を繰り返す。他にも、安政元年・4年には季節性インフルエンザ、6年には麻疹の流行が見られたようである(『武江年表』、富士川游『日本疾病史』)。一方、安政の大獄をおこなった大老・井伊直弼は、安政7年3月3日、桜田門外で暗殺された。新暦では3月下旬ながら雪の降ったこの日、おそらく黙阿弥は、市村座の次の興行で上演される『加賀見山再岩藤』の準備に追われていたことだろう。そして、この一つ前の興行で演じられた作品こそが、『三人吉三』であった。

一見、このような社会そのものの大きな動揺、相次ぐ災害や疾病は、『三人吉三』には反映していないように見える。しかし、常磐津の舞踊劇仕立てになっている「地獄正月斎日の場」では、夫婦の亡者が、「いまさら言ふも愚痴ながら、去年の八月二年目の、コロリに二人新亡者」と、自らの死因を明かす。安政5年の流行では、江戸周辺の火葬場は死骸で溢れかえり、優先して火葬を行うことと引き換えに遺族から賄賂をせしめようとする者も現れたという(『安政箇労痢流行記』)。この亡者の姿に、身近な人物を重ねた観客もあっただろう。しかし、そうした観客は、亡者の女房が夫の不実に対して、「いつその事のつら当てに、死んでやらうと思へども、死んで来たゆゑ死なれぬかと」かき口説いたり、閻魔大王・地蔵・小林朝比奈が拳に興じるような、妙に間の抜けた「地獄」を目にして、どのような感慨を抱いたのだろうか。

『与話情浮名横櫛』の蝙蝠安、黙阿弥の『梅雨小袖昔八丈』の家主長兵衛と弥太五郎源七などを初演した当時の名優・三代目中村仲蔵は、自伝『手前味噌』の中で、安政江戸地震の際に、「老人・女・子供」が、「何の因果でこんな恐ろしい目に逢ふであらう。去年死んだ人たちは羨ましい」とこぼしたことを記している。つらいこの世を生きるより、死んだ方がマシという心情は、当時の多くの人に共有されたものだったかもしれない。ましてや、「地獄」が存外に楽しげな場所なのだとすれば。

『三人吉三』の中でもっともよく知られた一場面、「稲瀬川(現行では大川端)庚申塚の場」にも、そうした現世のつらさが影を落としている。女装の盗賊・お嬢吉三は、道に迷った令嬢を装って、夜鷹おとせに近付く。

お嬢 アレェ。

ト仰山に、お嬢吉三、おとせに抱き付く。

とせ ア、モシ。どうなされました。

お嬢 いま、向ふの家の棟を、光り物が通りましたわいな。

とせ そりやおほかた、人魂でござりませう。

お嬢 アレェ。

ト、また、しがみ付く。

とせ なんの怖い事がござりませう。夜商売をいたしますれば、人魂なぞはたびたびゆゑ、怖い事はござりませぬ。ただ、世の中に怖いのは ○

ト、この時、本釣鐘を打ち込み、

人が怖うござります。

「○」は、登場人物の感情・心理を表現する仕草を行うことを指示する、歌舞伎の台本特有の記号である。おとせがふと、考え込むのと同時に打ち込まれる本釣鐘の音の効果といい、直後に本性を現したお嬢吉三がおとせの懐の金を奪い取ろうとし、「ほんに、人が怖いの」という言葉を返す展開の鮮やかさといい、見事だが、ここでおとせは何を思ったのだろうか。

もちろん、時代を問わず、「夜商売」には付き物の危険な体験もしてきただろう。しかし、想像をたくましくすれば、そこでふと19歳の彼女の脳裏をよぎったのは、10代の多感な時期を通じて経験してきた、数々の恐ろしい災害や病、そして災害に乗じて悪事を働いたり(当時の記録にも、被災した家屋を狙った泥棒などのことが見える)、多くの人の死に際しても賄賂をせしめたりする、生きた「人」の恐ろしさだったのではないか。

おとせは、夜鷹という下級の遊女でありながら、その容姿が評判となり、1年に360人の客をとったというところから、「一とせ」(一年の意)と名を変えたと、序幕で噂される美貌の持ち主であった。「わたしが一番きれいだったとき」、この世の地獄を見てきた女の心情が、「○」というそっけない記号には滲んでいる。

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