『三人吉三』の時代(3)

日置貴之

土左衛門伝吉は実在した?

おとせは、生き別れの兄妹であった十三郎と恋に落ち、真実を知った兄・和尚吉三によって十三郎もろとも殺される。近親相姦の事実を二人に知らせず、兄弟分のお嬢吉三とお坊吉三の身替りとして、「名誉の死」を与えるのは、和尚吉三のせめてもの情けである。

ところでこの二人がなぜ生き別れの身となっていたのかは、実の父である土左衛門伝吉によって語られる。

可哀や奥の二人は、知らずにゐるが双子の兄妹。産まれたその時世間をはばかり、女の餓鬼は末始終、金にしようと内へ残し、藁の上から片瀬へ捨てた、男の餓鬼があの十三。

かつては双子を「心中の生まれ変わり」などとして忌む習慣があった。伝吉も金になりそうな(現におとせには夜鷹をさせている)娘だけを残し、息子は捨ててしまったのだった。伝吉は19年を経て偶然、その捨て子の身投げを止めたのだった。

一方、お嬢吉三に金を奪われ、川に突き落とされたおとせは、舟で通りかかった八百屋久兵衛に救われる。この久兵衛も19年前、子供との別れを経験していた。

忘れもせぬ十九年跡、実子が一人ありましたが、子育てのないところから、名さへお七と付けまして、女姿で育てましたが、ちやうど五つでかどはかされ、行方の知れぬを処々方々、捜して歩く帰り道、竜口寺の門前で、拾つてまゐつたこの倅。

この五歳で誘拐されたという久兵衛の実子こそが、女装の盗賊・お嬢吉三であり、入れ替わるようにして彼に拾われた「倅」とは十三郎であった。19年前の誘拐と捨て子をめぐって、多くの人々の運命が交わり始める。

現代人の目からは、いかにもなご都合主義であるが、当時の社会で誘拐や迷子・捨て子などにより、親と離れた子供の存在が問題となっていたのも事実である。岡山城下の捨て子についての研究によると、天保の飢饉下で捨て子が増加したことが想像され、迷子についても京都の場合、凶作期に発生件数が増えているという。安政7年に19歳とすれば、おとせ十三郎が生まれたのは、天保13年(1842)。天保の飢饉の窮状を脱しつつあった時期であろうか。

迷子や捨て子が発見された場合、その場所の住民たちには、養育を願い出る者が現れるまで、これを保護する義務が生じた。一方で、捨て子の場合、貧困などにより子供を養育することができない実親にとっては負担の軽減、捨て子をもらい受ける側にとっては家の存続を担う跡取りを得ることができるというように、両者にとっての利点があったともいう。八百屋久兵衛が十三郎を養育したという設定には、こうした当時の子供をめぐる状況が反映していたのではないだろうか。

ところで、芝居好きには新派『日本橋』でおなじみ、日本橋川に架かる一石橋のたもとに、今も「迷子しるべ石」という石標が残っている。『三人吉三』初演の3年前、安政4年(1857)に建立され、迷子を尋ねる者と行方を知る者がそれぞれに貼紙をすることで、連絡を可能にするものであった。このような「迷子石」は、嘉永3年(1850)に湯島天神、安政7年に浅草寺や小伝馬町にも建てられており、江戸で迷子が問題となっていたことが改めて知られる。

ところで、この一石橋の迷子石建立までの経緯については、岩橋清美氏の研究で詳細が明らかになっているが、その中に興味深い点がある。一石橋南岸の西河岸町(現・中央区日本橋一丁目)の家主の代表・重兵衛らは、安政2年(1855)に、町奉行所に迷子石の設置を願い出ていた。実際の建立までに2年がかかったのは、どうやら家主たちの身元調査や費用に関する調査に時間を要したかららしい。そして、この調査に関する資料が残されているのだが、それによると、重兵衛たちは最初、迷子石の建立以外の計画を持っていたのだという。それは、水難者の供養であった。当時、日本橋川では夏になると遊泳をする者が多く、しばしば水死者が出た。重兵衛らはその供養を思い立ったのだが、この計画は実現することがなかった。それに代わって彼らが考えついたのが、湯島天神の例にならった迷子石の設置だったのである。

『三人吉三』について考えてきた立場からすると、「迷子−水難者の供養」というつながりからは、先に記したような伝吉と久兵衛の奇縁や、因果応報を悟って「悪心発起して、罪滅ぼしに川端へ、流れ着いたる土左衛門を、引き上げちやァ葬るので、綽名になつた土左衛門伝吉」という、「土左衛門伝吉生誕秘話」を思い浮かべてしまう。というと強引なようだが、西河岸町から数百メートル、日本橋式部小路(現・日本橋二丁目、日本橋高島屋付近)に黙阿弥の生家があったことを思えば、あながち無茶な連想でもないのではないか。土左衛門伝吉のモデルについては、「宝暦年中の侠客の名」とする説(三田村鳶魚「随筆三人吉三」)などがあるが、西河岸町の家主たちの面影もまた、伝吉という人物のなかには映じていたと考えておきたい。

黙阿弥は自らが見聞してきたさまざまな巷説などを取り入れながら、『三人吉三』に当時の世の中を描き出した。当時の社会の抱える問題の大きさ、人々が生きていくことの困難さには呆然となるしかない。彼は、座頭の4代目市川小団次演じる和尚吉三に、おとせと十三郎の二人を殺害し、さらに義兄弟の契りを交わしたお嬢吉三・お坊吉三と三つ巴になって刺し違えるという形で、父の世代からの因果を断ち切らせる役割を与えた。つらいこの世から、それが地獄であったとしても、はるかにマシなあの世へ(そもそも、「地獄正月斎日の場」は和尚吉三の見た「夢」という設定である)。八幕の長編はこうして幕を閉じる。

ただし、杉原邦生演出による木ノ下歌舞伎版(2015、16年)では、幕切れはやや趣を異にする。それまで舞台に置かれていた”EDO”という文字のパネルは、いつしか”TOKYO”へと置き換わり、三人の盗賊の最期を横目に、文里一家は歩みを進める。文里の子供たちは、大正、あるいは昭和まで生き延びたとみてもおかしくない。そこには、「地獄」よりも地獄らしい世をも生き抜いていく者たちへの眼差しがあった。

いま一度、木ノ下歌舞伎版『三人吉三』が世に出ることを願ってやまない。

[参考文献]

  • 沢山美果子『江戸の捨て子たち その肖像』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館、2008年
  • 岩橋清美「近世都市江戸における迷子の保護」『千葉経済論叢』第48号、2013年7月
  • 鬼頭宏「迷子と行方不明——18世紀京都の人口現象——」『人口学研究』第9巻、1986年5月

日置貴之

明治大学情報コミュニケーション学部准教授
幕末・明治期を中心に日本演劇の研究をしている。特に、災害・戦争・病気等が演劇でどのように描かれたかに関心がある。オンライン授業下での気分転換のため、ベランダでハーブ、ゴーヤ、唐辛子等を栽培中。

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