木ノ下と遊山する -『義経千本桜』の“登山道”其の二

「キノカブを観る前に予習していきたいんですけどねぇ。なにから手を付けたらいいか……」とおっしゃってくださるお客様に出会うことがあります。たしかに魅力的な関連書籍や映像作品なども多いです。今作『義経千本桜』のようにメジャーな演目ならなおのこと。ですが、その方の興味関心の在り処によってヒットするものもマチマチでしょうから、これはなかなかの難問です。このミニコラムでは、ひとまず私のおすすめの予習法(もちろん復習にも使えます)を約五回にわけてご紹介していこうと思います。

まずは、『義経千本桜』という小高い山があると想像してみてください。しかし、この山、山頂に登るための登山道が無数にあります。ルートによって傾斜の角度や険しさや、見える景色が違います。しかし、どれも山頂を目指して歩いていることは変わりありません。気に入っていただける登山道があればいいのですが。

其の二 〈奥ルート・典拠道〉~「『平家物語』を読んでみる」

  • 難易度 ★★★☆☆
  • 総歩行時間 約3時間~半年
  • 装備品 とくになし(しいて云うなら“想像力”)
  • 絶景ポイント 古人の物語る声を聴きつつ眺める歴史パノラマ
  • 注意点 沼地

歌舞伎や浄瑠璃の作品には、必ず元ネタがあるわけです。それは、歴史書であったり、文学(物語)であったり、説話や民間伝承譚であったり、先行芸能(別ジャンル)や先行作品(同ジャンル)などなど種類は様々ですが、ともかく複数の元ネタの上に一つの作品が立脚しています。

『義経千本桜』を例にとって主な元ネタを挙げていけば、まず史実(歴史)である平安時代の源平の争乱(治承寿永の乱)、それら史実を軍記物語に仕立て直した『平家物語』や『義経記』、稲荷信仰に付随する数々の狐の伝説、先行芸能では能の『船弁慶』などが、先行作品では近松門左衛門の『天鼓』などがあります。このように芋づる式に広がっているのです。中でも、最も影響を受け、かつ創作の下敷きに使用しているものを「典拠」といったりしますが、『義経千本桜』の、とりわけ「渡海屋・大物浦」においては、『平家物語』がその筆頭のひとつに挙げられます。というわけで今回は、『平家物語』のススメです。だいたい典拠というものは「知らなくても楽しめるけど、知っているともっと面白い」という類のものですから、あえて「奥ルート」と位置付けてみました。

さて、『平家物語』を読む楽しみは、なんといっても壮大な物語にどっぷり浸かれるところ。動乱の平安末期を舞台に、源平の栄枯盛衰の様が、全十二巻にわたって群像劇的に展開されます。主要キャラだけでも百人は軽く超えるのではないでしょうか。冒頭からじっくり読んでいくもよし、「渡海屋・大物浦」の主人公である平知盛が活躍する後半に焦点を絞り、重点的に読むのも一興です。

私が好きな知盛名シーンはまず、巻第九の「知章最期」。一の谷の合戦で息子・知章を亡くした傷心の知盛が命からがら撤退する途中、愛馬と別れを告げる、全編の中でも屈指の愁嘆場。

勇壮な知盛が見たければ巻第十一「鶏合 壇浦合戦」。「いくさは今日ぞかぎり、者どもすこしもしりぞく心あるべからず」と舟の屋形に立って大音声で全軍に檄を飛ばす姿には、平家の因果をすべて背負った男の覚悟、諸行無常の運命に抗おうとする人間の強さが垣間見えます。

そしてなんといっても、『先帝身投』(同上巻)。「渡海屋・大物浦」でも再現される安徳天皇が入水する有名なシーンです。ここは、いよいよ平家が壊滅する、いわば全体のハイライト。知盛も敗軍の将として奮闘します。とりわけ惨敗が決定的になった際に、安徳帝や女官たちの乗った御座船へその旨を伝えにいくくだりが泣かせます。戦局が把握できない女たちに「中納言殿(筆者注・知盛のこと)、いくさはいかにやいかに」と問われ、返す一言がイイんです。

「めづらしきあづま男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ(これから皆さんは珍しい東男をご覧になることでしょう)」

そして、言い終わるやいなや「からからとわらひ給」うのですね。東国の武者(源氏軍)が間もなくこの御座船に乗り込んでくることを、ユーモアを交えて暗に伝えたわけですが、さて、その真意はなんだったのでしょうか。女たちを不安にさせないための彼なりの気遣いだったのか、自身の力の足りなさを自嘲したのか、はたまた切羽詰まった男の最後の強がりだったのか。『平家物語』には、過剰な心理描写はありません。ほとんどのシーンがその事象のみを伝え、実に淡々と展開していきます。読者は描かれていない心理の余白を埋めていかねばなりません。人物像を想像していく楽しみ。そこが『平家物語』を読む醍醐味でもあるのです。醍醐味といえば、ことばのリズムも美しいです。私は、講談社学術文庫『平家物語 全訳注』(訳注・杉本圭三郎)を愛用しております。本文、現代語訳、語釈、解説からなる丁寧な仕事ですが、底本は語り物系の覚一本。声に出して読んでみると、言葉のリズム、センテンスの長短のバランス、韻の踏み方など、恍惚とするほど心地よく、なるほどかつて琵琶法師が語った〝ことば〟であることが実感できますし、次第に、耳元で琵琶法師の語りが聴こえてくるような錯覚すら覚えます。

ぜひ、この全十二巻の長い登山道に挑戦してみてください。登る際のコツは、まず、章を小分けにして、意味は分からずともまずは原文を音読→わかる言葉だけを拾い集め意味を推測(この時、誤読を恐れずできるだけ大胆に)→現代語訳を読んで意味を掴み→その後、語釈や解説で背景を知り→最後にもう一度味わいながら音読。これを繰り返しつつ登れば途中でへばることはありません。

あ、あまりの面白さに『平家物語』の沼にハマってしまい抜け出せなくなることに要注意です。

講談社学術文庫『平家物語 全訳注』
杉本圭三郎(訳注)
講談社
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この記事を書いた人

1985年和歌山市生まれ。小学校3年生の時、上方落語を聞き衝撃を受けると同時に独学で落語を始め、その後、古典芸能への関心を広げつつ現代の舞台芸術を学ぶ。歌舞伎演目の現代劇化を試みる劇団「木ノ下歌舞伎」の主宰。
渋谷・コクーン歌舞伎『切られの与三』(2018)の補綴を務めるなど、外部での古典芸能に関する執筆、講座など多岐にわたって活動中。