そもそも、「三人吉三」ってどんな演目なの?

基本的な知識から、ちょっとマニアックな情報まで、木ノ下歌舞伎の『三人吉三』を丸ごと楽しむための情報が満載!



|演目の解説|

「三人吉三」(俗称)…1860年(安政7年)、江戸幕末の動乱期に『三人吉三廓初買』として初演。他の劇場の人気におされて観客動員は振るわなかったものの、黙阿弥自身は「会心の出来」と評した。 初演時は、三人の吉三郎(和尚吉三、お嬢吉三、お坊吉三)を中心とした因果話と、廓を舞台にした(一重・文里)の恩愛話が交互に進行する内容だったが、1899年(明治32年)、黙阿弥の死後、廓の話をカットした『三人吉三巴白浪』が上演され、その形式が定着する。戦時中は時局に配慮してか、一時上演が途絶えた。また、美しい見得や名台詞など見せ場が豊富な「大川端庚申塚の場」のみが上演されることも多い。 近年では、コクーン歌舞伎において串田和美の現代的な新演出が評判を呼び、注目を集めた演目でもある。


河竹黙阿弥|二世 河竹新七| Kawatake Mokuami |Kawatake Shinshichi II|

1816年–1893年。江戸末期から明治期の歌舞伎作者。1843年に二世河竹新七を襲名し立作者になる。江戸期には四代目市川小團次とタッグを組み数々の名作を発表。当時の世相、退廃気分を反映させた生世話物を得意とし、劇作界の巨頭となる。明治期においても、舞踊や海外戯曲の翻案を手掛けるなど幅広く活動し、近代歌舞伎の礎を作った。生涯に約360篇の作品を書き残し、坪内逍遥から「我国の沙翁(シェイクスピア)」と称せられている。代表作に「弁天小僧」「髪結新三」「茨木」「高時」「紅葉狩」などがある。


|あらすじ|

江戸時代。刀鑑定家・安森源次兵衛の家は、何者かにお上の宝刀・庚申丸を盗まれて断絶となっていた。ある時、立身出世を目論む釜屋武兵衛は、巡り巡って木屋(刀剣商)文里のもとにあった庚申丸を金百両で手に入れる。しかし文里の使用人・十三郎は、その取引の帰り道、夜鷹(街娼)・おとせと出会い、受け取った百両を紛失。思いがけず百両を手にしたおとせだったが、十三郎を探す道すがら、女装の盗賊・お嬢吉三に百両を奪われてしまう。様子を見ていた安森家浪人・お坊吉三は、お嬢吉三と百両を巡って争うが、そこに元坊主・和尚吉三が現れる。彼がその場で争いを収めたことで、三人は義兄弟の契りを結ぶ。
また、失意の十三郎は、川に身投げしようとしたところを、和尚吉三の父・伝吉に拾われていた。訪れた伝吉の家で、彼はおとせと再会し…。 一方、吉原の座敷では、文里がお坊吉三の妹で花魁・一重に想いを寄せていた。人柄で評判の文里だったが、彼には妻子があった。文里の求愛を一重が拒みつづけていたある日、文里は、ある決意を座敷で語りはじめる。


|主な人物相関図|


作図|木ノ下裕一

|知れば知るほど!「三人吉三」豆知識|

◎激動の時代の「三人吉三」~初演時の時代背景~

 「三人吉三」(『三人吉三廓初買』)は、1860(安政7)年正月に江戸・市村座で初演されました。では、初演時の時代背景はどのようなものだったのでしょう。
 初演から遡ること2年、1858年に日米修好通商条約が締結されたことで、200年以上に及んだ日本の鎖国は終わりを迎えました。しかし、関税自主権の放棄や治外法権、金銀の自由輸出などを認めるこの条約をきっかけに、諸外国へ金の流出が発生。物価は高騰、貨幣の価値は下落し、身分の低い農民や町人たちはとても厳しい生活をしていたようです。
 それにともない、天皇を敬い開国に反対する尊王攘夷運動や、倒幕(幕府を倒す)運動が活発になっていきます。とうとう1859年には幕府による尊王攘夷派の処罰(安政の大獄)がはじまり、この動きは「三人吉三」が初演された1860年の3月に幕府大老・井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変)まで続きます。
 「三人吉三」初演の1860年は、まさに明治維新前夜ともいうべき動乱のさなかだったといえるでしょう。江戸幕府から明治新政府へ…という時代の転換は、長く続いたひとつ国が滅びたかのような、そんな大きな変化だったのではないかと思われます。親しんだ江戸の風景が失われていくなかで、変貌する時代の足音を聞きながら、黙阿弥はいったい何を見つめていたのでしょうか。


◎年越しの芝居「三人吉三」

 初春、門松、梅、春風、厄払い、節分…「三人吉三」には随所に〈正月〉にまつわるキーワードが登場します。もともと正月狂言として初演された経緯を考えれば当然のことと言えるかもしれません。ゆえに現代でも、お正月や節分にちなんで上演されることが多い演目でもあります。ちなみに江戸時代の暦は太陰暦が基本になっておりましたので、現代とは違ってお正月と立春の節分がほぼ同時期に重なります。
 近年の「三人吉三」のスタンダードな上演は、小悪党である三人の吉三郎を軸に、黙阿弥の原作の約半分をばっさりカットした、いわば短縮版です。木屋文里とお坊吉三の妹・花魁一重との恩愛譚(俗に「廓話」)と呼ばれるパートはほとんど上演されることがありません。ゆえに、「三人吉三」の物語は、ある正月の数日間に起こった出来事であると思われている方も多いのではないでしょうか。しかし、一重が文里の子を妊娠し、出産することでもわかるように、劇中でそれなりの月日が経過しているはずです。最終幕もまた正月が舞台になっておりますが、これは冒頭からは一年が経過した次の年の正月、つまり「三人吉三」の物語は〈ある年の正月から次の年の正月までの一年間に繰り広げられる群集劇〉なのです。


◎二つの時代を生きた黙阿弥

河竹黙阿弥は1816(文化13)年に生まれ、1893(明治26)年に78歳で没していますから、江戸と明治の二つの時代をまたいで生きた歌舞伎作者です。江戸期の黙阿弥は四代目市川小團次とタッグを組み数々の名作を発表。当時の世相や退廃的な気分を反映させた世話物を多く手がけ、江戸の観客を熱狂させました。劇界を代表する立作者になった黙阿弥ですが、明治維新を待たずして盟友・小團次が没するとその運命が大きく変わります。明治に入ると演劇改良運動が起こり、明治政府や当時の経済人・文学者などが中心となって「歌舞伎の高尚化」が盛んに行なわれるようになりました。黙阿弥もその煽りを受けて、能や海外戯曲を翻案した歌舞伎を書くなど、近代歌舞伎の礎を作ります。生涯に約360篇の作品を書き残した河竹黙阿弥は、江戸の終焉と、近代の幕開きに立ち会い、新旧二つの時代の風をもろに受けた作家でもあるのです。


|木ノ下裕一の音声ガイダンス|

歌舞伎演目を紐解く、木ノ下裕一による音声ガイダンス。[全4回]
※其の壱〜其の参は初演時(2014)に収録したものです。

その壱ーザザッとわかる三人吉三ー

「三人吉三」の歴史を中心に全貌をザザッとわかりやすく解説します。

その弐ー作者・黙阿弥に迫るの巻ー

「三人吉三」の作者・河竹黙阿弥が江戸・明治という動乱の時代をどう生き、どう捉えたかを木ノ下視点を織り交ぜ解説します。

その参ーこれであなたも吉三ツウー

「三人吉三」の知られざる背景や、滅多に上演されないレアな幕についてなど、ややマニアックに解説しています。「三人吉三」が現代に放つメッセージとは?

其の四ー吉三の時代にタイムスリップー

黙阿弥が「三人吉三」を生み出した頃はどんな時代?江戸と東京はどう違うの?そんな近くて遠い江戸の町に、木ノ下がちょっとだけ皆様をお連れします。作品について広く理解を深めていただくための番外編です。